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臨床哲学

●昨日の話とも繋がってくるが、最近は『臨床とことば』を読み直している。
●臨床心理学者の河合隼雄氏と臨床哲学を提唱する鷲田清一氏の対談。
 臨床哲学は個別ということにこだわりつづけ、個別の足し算ではなく、個別という一例を深めることで普遍的な場に出る。臨床心理学でいうところの事例研究。理論のことは勉強しても、ディスカッションなどの席では一切使わない。
 こういう話が今のわたしには必要で、頷くことばかりだ。
●日本の倫理基準についても、最終的には美的判断ではないかということ。
 「嘘をついてはいけない」という倫理・道徳ではなく、その場面で「嘘をつくこと」が美しいか、美しくないか。
●そして、それらはきっと作品作りにも通じることであり、彫刻家のジャコメッティは「一人の人を描き切って、描き切ったら、なぜかその顔は、誰の顔でもあるように見える」という。
 この言葉から、敢えて抽象的な言葉で普遍性を語ろうとせずとも、別のルートがあることを改めて再認識できた。
 ここからおそらく次の作品も見えてくるのではないかと思っている。

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個人的な神話を作るということ

●今日も二つの日記にわけて。
 昨日からの課題だった『神話と日本人の心』(河合隼雄・著/岩波書店)を読んでいるのだが、いくつかの場面で太田省吾氏の演劇論と通じるところがあるのが興味深い。
 思えば、太田さんも世田谷のセミナーで河合さんのことを引用していたような気もする。

●この本のなかでジョーゼフ・キャンベルの言葉から「これから長い長いあいだ、私たちは神話を持つことができません。物事は神話化されるにはあまりにも早く変化しすぎているので。」と引用し、さらにこう続けている。「各個人が自分の生活に関わりのある神話的な様相を見つけていく必要があります。」
 これに関して河合氏も「個人の自由は拡大したが、それに伴って、個人の責任が重くなるのも当然である。個人の責務のひとつとして、「自分の生活に関わりのある神話的な様相を見つけていく」ことがあるのを自覚しなくてはならない。それを怠っていると、途方もない不幸に陥ったり、不安に襲われたり、他人に対して迷惑をかけたりすることになる。言うなれば、各人は自分にふさわしい「個人神話」を見出さねばならないのである。」
●つまり、「科学の知」に先行された現代の中で、いかに「神話的な様相を見つけ」ることができるか。それが演劇というメディアに当てはまる。そこで「神話の知」をいかにして現代によみがえらせることができるのか。
 「科学の知」は支配・コントロールしようとする。これに対して、「神話の知」や「あいまいの知」は、本来日本人が優れた部分として持っているはずだ。
 もちろん、「科学の知」の発展ぶりはめざましく、わたしも圧倒的にコンピュータの前に座っている時間が長いし、それなしでは生きていけないほどだ。だからこそ、「神話の知」を見直す必要がある。それは演劇だからこそできることだと思う。