見学者-004- 『次の出発』
2007年3月8日(木)〜11(日)
吉祥寺シアター
作・舞台美術:黒沼佰見
演出:倉光仁美
照明:木藤 歩(Balance,Inc.)
音楽・音響:渡辺 禎史
舞台監督:吉川 悦子
制作:kengakusha
出演:
カメラ ‐ 杉田 健治
ご夫人 ‐ 菊地 奈緒
道連れ ‐ 小池 友洋
渡り鳥 ‐ 江原 大介
水 鳥 ‐ 藤田 早織
風見鶏 ‐ 能登谷 智生
新聞紙 – 戸田 武臣
白 菊 – 渡辺 さおり
砂の女 – 丸二 明紀子
石の女 – 伴田 万理子
岩の女 – 筒井 きえ
運転手 – 佐糖 勇樹
船 頭 – 長瀬 良嗣
▲シーン1 土手の上のご夫人とカメラ(菊地奈緒と杉田健治)その手前には鳥。(左から能登谷智生/江原大介/藤田早織)
<あらすじ>
■とある川辺の土手。土手の上にはバス停を思わせる標識。川辺にはそこが船着き場だと思わせる桟橋。そこに舟で到着した[カメラ]と[ご夫人]。どうやら二人は旅行の途中らしいが、いつの間にか二人に付いてきたのは、言葉のわからない旅の[道連れ]。そこからバスで街へと向かおうとするが、バスはなかなか来ない。[船頭]は一日に一度、船で往復しているという話だが、度々現れる。
[道連れ]は、[カメラ]の息子だと言っているようだが、何を言っているかわからない。[白菊]は、墓参りに行ったかと思えば、[船頭]に連れられ、またやって来て薬を買いに町へ出ようとしているし、[新聞紙]も競馬のために街へ出ようと試みるも待ちくたびれて一度バスを諦めたかと思えば、しばらくすると職を探すためにバスを待っている。バスの[運転手]はいるが、バスは来ない。
何度も来る夜には、必ず現れる若者たち。どこか北の方からこの土地にやってきた者のようだが、しばらく対岸の村に滞在し、夜には必ずこの土手に集まってくる。幻覚作用のあるクスリを所有しているようで時々おかしな言葉を口にするが、それはどこかで聞いたことがあるような神話であったりする。
そして、ときに3人の女達が現れる。彼女たちも対岸の村に住む者たちだ。彼女たちによって、徐々に明らかになるのは、これが単にバスを待つ話ではないということだ。バスはいつまで経っても来ないが、バスを待っている時間、他者との出会いを通して、[カメラ]と[ご夫人]は自分たちの旅の意味を見いだしていく。
▲シーン3、「馬と並ぶ男」より、バス停に並ぶ人びと(左)。シーン4「鳥たちの夕べ」より、並ぼうとしない若者(右)。
▲シーン5「砂石岩それぞれの発生」より。
▲シーン6「川に流す」(写真左)では『ゴドーを待ちながら』のラッキーの独白と、若者たちの山手線ゲームの組み合わせ。
さらにそれらがシーン1の日本書紀に通じるリフレインに変容していくまでを描いた。
▲シーン7「カラカラに乾いた沼地」より。赤の他人が夫婦(イザナギ・イザナミ)へと変容していく。
▲シーン9「雨の降る土手」より。ほぼ全員の無意識の放出と、2重、3重の多層モノローグのシーン。今回の最もやりたかったところ。
▲開演前のひととき。
大変な舞台になってしまった。登場人数も13人と過去最高なら、劇場サイズもかなり大きな場所だ。そして、観客動員数もそれに比例して大きくなってくれたのは嬉しいものの、やはり「意味や解釈をどれだけ拒むか」という試みが強く戯曲執筆の時点であったし、「ただ観たことにしない」ための仕掛けもまた観ることに体力を必要とさせ、お客さんからの反応が賛否両論となるのは当然と言えば当然だった。
もちろん、このサイトを通じて訴えているのは常にこうしたことだが、やはりチラシやその他の宣伝媒体でももう少しそうした前情報を入れておければよかったのかもしれない。
高行健の『バス停』を下敷きに、『日本書紀』『古事記』、ベケットの『ゴドーを待ちながら』(ラッキーの台詞)、内田百聞(門構えに月)『道連』『水鳥』からも一部引用・再構成させていただいた。