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序論・第二章・第六節 存在論の歴史の破壊という課題

 先週に比べるとかなりすっきりした表題であるが、ことはそう単純ではなさそうだ。何しろ長い。しかもギリシア哲学・デカルト・カント・ヘーゲルといった哲学の歴史的な問題が続く。いや、そうした意味では今までのあまりにもメタな問いに比べ、わかりやすい内容ではある。基本的な西洋哲学のおさらいはわたしからはしない。いや手が回らない。ハイデガーが振り返る範囲内において歴史をおさらいしていくことにしよう。
 と、その前にどうして歴史に話が向かったのか、その辺りを確認しておこう。

  現存在は、そのつどおのれの現事実的存在において、おのれがすでにいかにあったかであり、また「何で」あったかである。表立ってであろうとなかろうと、現存在はおのれの過去である。ー中略ー現存在はおのれの存在の仕方においておのれの過去で「ある」のだが、この存在は、大まかにいえば、そのときどきにおのれの未来のほうから「生起する」のである。

 あまりにも唐突な発言だ。いや、彼にとっては唐突ではないのかもしれない。前回現存在と時間性について語ったうえでのことだ。「いかにして現存在が「時間の内で」存在するものの一つであるのかと言うことを別にすれば、同時に、現存在自身の時間的な存在様式としての歴史性を可能にする条件でもある」。そのうえで、現存在とは未来から「生起する」過去である、と言っている。相変わらずよくわからないが、話はどんどん進んでいく。

  現存在のこの基本的な歴史性は、現存在自身にはあくまで秘匿されたままであることもある。だが、そうした歴史性も、或る種の仕方で暴露され、それ固有の養育を受けることもある。現存在は、伝統を暴露し、保持し、伝統に表立って追従しうるのである。伝統を暴露することと、伝統が何かを「引き渡す」のかを、また、どのように伝統が引き渡すのかを開示することとは、それぞれの課題としてとりあげられうる。かくして現存在は、歴史学的に問いたずねるという存在様式のうちへと連れこまれるわけである。

 そういうことらしい。あるいは、別の言い方ではこうも言っている。

  存在問題を仕上げることは、存在を問うこと自身が歴史的に問うことだというその最も固有な存在意味にもとづいて、そこから、この問いに固有な歴史を問いたずねるべしという指令を、言いかえれば、歴史学的になるべしという指令を受けとらざるをえず、その結果、過去を積極的に我がものにすることにおいて、この問いの最も固有な諸可能性を完全に占有するに至るのである。存在の意味への問いは、この問いに帰属する遂行様式に応じて、言いかえれば、現存在をその時間性と歴史性とにおいて先行的に究明するものとして、おのれが歴史学的な問いだと了解するところまで、おのずから進んでいるのである。

 しかしながら、ハイデガーは苦しんでいる。「伝統」に対して。第一節でも示されたとおり、存在への意味への問いが明らかにされていないままだ。アリストテレスからデカルト・カント・ヘーゲルに至るまで、伝統的な「存在論」が存在論を自明なものとして、低落させていると嘆いている。
 こうして、ハイデガーは存在論の古典的解釈への解体に取りかかる。つまり、この「解体」が表題にもなっている「存在論の歴史の破壊」である。そして、これは単なる過去の批判ではなく、「現在へ向けられた」、「積極的な意図を持った」破壊であると訴えている。
 では、次に設定されるべき問いは何か。ハイデガーは次のように問う。

 はたして、またどこまで存在論の歴史の経過のうちで、総じて存在の学的解釈が時間という現象と主題的に結びつけられたのか、結びつけられえたのか、さらにはたしてそのために必要な存在時性の問題性が原則的に際立たせられたのか、際立たせられえたのか。

 これを検証していこうというわけだ。「根本的探求の道程をわずかながら存在時性という次元の方向において進め、ないしは、そうした諸現象自身に強制されてこの方向へと押しやられた最初にして唯一の人は、カント」と言い、そうしてカントの仕事を検証しようと試みる。
 カントが存在時性の問題を見抜けなかったことについて、二つの原因を挙げている。

1,存在問題一般がゆるがされていた。それと連関して、現存在の主題的な存在論が(主観の主観性の先行的な存在論的分析論が)、欠けていた。
2,カントの時間の分析が、時間というこの現象を主観のうちへととりもどしたにもかかわらず、伝承された通俗的時間了解内容のうちにあくまで方向を定めている。

 カントはデカルトの「我思う故に我あり」をそのまま引き受けてしまったこと。「我思う」と「時間」とのあいだに決定的な連関を見いだすことができぬままであったことを問題にしているようだ。
 さらに、先にもまとめたようにそれはプラトンの対話術的な形而上学の形成、アリストテレスの時間概念の分析、これら(ギリシア存在論)の上に成立したものであり、そこをもう一度、「建設的に」破壊しなければならないと言いたいらしい。

05/01/09


<参考文献>
『ハイデガー 存在と時間1』中公クラシックス(訳・原佑/渡邊二郎)

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