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序論・第二章 存在問題を仕上げるときの二重の課題〜根本的探求の方法とその構図 第五節 存在一般の意味を学的に解釈するための地平から邪魔者を取り払うこととしての現存在の存在的分析論

そうしてわれわれはようやく第二章に入った。しかし、この表題の長さは何だ。「存在一般の意味を学的に解釈するための地平から邪魔者を取り払うこととしての現存在の存在的分析論」。これは第六十一章「現存在にふさわしい本来的な全体存在の限界付けより、時間制から邪魔者を現象的に取り払うことへといたる方法的な歩みの下図」に次ぐ長さだ。
 ちなみに第二章の表題は「存在問題を仕上げるときの二重の課題〜根本的探求の方法とその構図」ということらしい。これから第五節・第六節・第七節・第七節A・第七節B・第七節C・第八節と七回にわたってとりあげられる。

 さて、ここでは「現存在にどうやって近づくか」ということが問題となっている。そして、近づくにあたっては邪魔者があるらしく、それを取り払わなければならない。そして、まず邪魔者となるのは第四節までで確認してきた「存在的・存在論的優位」への誤解だった。その誤解とは何か。またややこしい話になるが引用しよう。

  現存在というこの存在者は存在的・存在論的に第一次的に与えられている存在者でもなければならず、しかも、この存在者自身が「直接的に」とらえられうるという意味においてばかりではなく、この存在者の存在様式が同じく「直接的に」前渡しされているということに関してもそうだという見解である。現存在は、なるほど存在的には、身近であるばかりではなく、それどころか最も身近なものですらある。ーそのうえわれわれはそのつどみずから現存在なのである。それにもかかわらず、ないしはそれだからこそ、現存在は存在論的にはもっとも遠いものである。なるほど現存在の最も固有な存在に属しているのは、この最も固有な存在についてなんらかの了解内容をもち、おのれの存在の或る種の被解釈性のうちにそのつどすでにおのれを保持するということ、このことではある。

 つまり、現存在は最も身近で、最も遠い。だからこそ誤解が生じると言いたいらしい。「直接的」とか「前渡し」とかまったく理解できないままではあるが、それはそれでいい。現存在を考えるにあたって、どうしても特有の困難にぶつかるが、それらの困難は「この主題的対象とそれを主題化する態度自身との存在様式のうちにその根拠をもっている」のだということを再確認しただけのことだ。
 何を言っているのかいよいよわからなくなってきたが、とにかくこうした現存在に対する分析はあくまでも「暫定的」なのであって、完璧な存在論へ繋がるものではないということだ。そういうふうにハイデガーも書いている。ならばどうするか? 「最も根源的な存在解釈のための地平から邪魔者を取り払う準備をすべきなのである。」とハイデガーは言う。そうしてこの第五節の表題に戻ってきた。
 突然だが、ハイデガーが記した今までで最もわかりやすい現存在についての説明が出てきた。

  現存在は、存在しつつ存在といったようなものを了解しているという仕方において存在している。

 これはちょっとわかりやすい。いままでの繰り返しだが、最も端的に説明していると思う。
 で、ここから、唐突に(本当に何の前触れもなく)「時間性」という言葉が出てくる。この書のタイトルは『存在と時間』。時間についての考察ももちろんあるのだろうが、つまり、これこそが準備なのだろう。そう信じて進むしかない。

こうした連関を確保しながら示されなければならないのは、そもそも現存在がそこから存在といったようなものを表立たずに了解し解釈してくる当のものは時間であるということ、このことなのである。この時間が、すべての存在了解とあらゆる存在解釈との地平として明るみにもたらされ、まじりけなく概念的に把握されなければならない。このことを洞察されうるようにさせるためには、存在了解の地平としての時間を、存在を了解しつつある現存在の存在としての時間性から根源的に究明する必要がある。

 ハイデガーもまた突然な男だ。話が複雑すぎて、わたしのコメントも愚痴と諦めばかりになっているではないか。「現存在の存在としての時間性」って何だ。まったくわけがわからない。そこから根源的に究明すると言っている。そのヒントはこの文章の中にありそうだ。

「時間」は、昔から、存在者のさまざまな了解を素朴に区別する存在論的な標識、ないしはむしろ存在的な標識としての機能を果たしている。ひとは、「時間的」な存在者(自然の経過や歴史の出来事)を、「非時間的な存在者」(空間的関係や数量的関係)に対して区画づける。ひとは、命題の「無時間的」な意味を、命題を陳述することの「時間的」な経過に対して対照的に際立たせるのが常である。さらにひとは、「時間的」な存在者と「超時間的」な永遠なるものとのあいだに「裂け目」をみとめて、両者の橋渡しを試みる。「時間的」とは、この場合いずれも、(何かが)「時間の内で」存在していると言うのと同然であるのだが、これは、もちろんまだ十分曖昧でもある規定である。それでも、時間が、[何かが]「時間の内で存在している」という意味において、諸存在領界を区別する標識としての機能を果たしているということ、この現事実は成立しているのである。

 まったく今回は引用が長いが、自分の言葉に置き換えられないため、致し方ないことをご理解頂きたい。とにかく「時間」というのがどうも存在を振り分ける標識になっているということだ。で、「時間の内で存在している」ということだけでなく、「超時間的(永遠)に存在している」とか、「非時間的に存在している」とかもひっくるめて、「時間的だ」とハイデガーは言う。「永遠に」はわかるとしても、「非時間的に」を「時間的だ」と解釈するのはどうかとわたしは思う。それはハイデガーが勝手に「時間的か非時間的か」という座標を仕立て上げたに過ぎないんじゃないか。まあ、「時間を座標軸に存在を捉えよう」という試みなのだから、仕方があるまい。ここまで来たんだし、それに一度騙されることにし先に進もう。

われわれは時間にもとづく存在とその諸性格や諸様態との根源的な意味規定性を、存在の存在時的規定性と名付ける。だから、存在そのものを学的に解釈するという基礎的な存在論的課題は、おのれ自身のうちに、存在の存在時性を際立たせることを含んでいる。存在時性の問題性が開陳されるとき、そのうちでまずもって与えられるのは、存在の意味への問いに対する具体的な答えなのである。

 ここからはつまり、まさに「存在と時間」。しかし、よく知られているようにこの書物は未完のままだ。存在時性については開陳されないまま、ハイデガーは死んでしまったと翻訳者は注を付けている。詳細はこうだ。

 「存在時性」とは、時間性が現存在の存在の意味であるのに対して、存在そのものに与えられた時間性のことである。しかしこの存在時性という思想は、『存在と時間』が第一部第三編を未完のままで断念したことに応じて、その後、それとしては完璧な展開をみせなかった。」

 果たしてこれで邪魔者が取り払えたのか、今ひとつ釈然としないままだが、ここで第五章を終える。

05/01/02


<参考文献>
『ハイデガー 存在と時間1』中公クラシックス(訳・原佑/渡邊二郎)

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