この説は正直言ってあまり重要でないように思う。この判断が正しいか正しくないかは、最終的に読み終わるまでは何とも言えないが、直感的に重要でないと判断した。
そもそも何が言いたいのか、いい加減このハイデガー野郎のもったいぶった言い方に苛立たされるばかりではっきりしない。とりあえず、読んでいこう。
ハイデガーはここでわたしの苛立ちを察してか、こんな感じではじめている。
「何度も何度も存在問題を取り上げているけど、繰り返しているのは、尊厳に関わる問題だからだし、にもかかわらず明確な答えがないからだよ」と。じゃあ、この問いがそもそも何の役に立つのか。わたしが嫌気をさしているのに気付いたのか、自分で問題にし始めているのである。そして、こう言う。
存在は<…略…>諸領域を限界づけたりするための分野となりうるものである。たとえば、歴史とか、自然とか、空間とか、生命とか、生存とか、言語とかいったそれらの特定の諸事象領域は、それ自身としては、それぞれに対応する学的な探求において、対象として主題化される。
要は、存在という問題、「存在」を学的に問うことが、他の諸分野の学問と比較したいらしい。そして他の諸分野の学問でもまた、根本的に問い直す傾向にあると言っている。(つまり、そうした手続きを踏まえるべきであると暗に言っているのではないか。)
一見厳密な数学も、基礎付けに「形式主義」と「直観主義」で対立しているし、物理学も相対性理論によって物質の問題に直面している、生物学も、歴史学も、神学も…というように、どれも「根本概念」が問われている、と言いたいらしい。
そして、存在問題は、それらの諸学問の前に、「何をいったいわれわれは『存在』という言葉でもって指しているのか」ということに関して、まえもって相互了解を取り付けておく必要のあるものなのである。
すべての存在論は、たとえそれがどれほど豊かな強固にかためられた範疇体系を意のままにしていようとも、それがあらかじめ存在の意味を十分明瞭にしておかず、この明瞭化をおのれの基礎的課題としてとらえておかないときには、根本的において盲目であり、おのれの最も固有な意図を顛倒するにとどまるのである。
何が言いたいんだ、お前は。お前は。二回、言っちゃったよ。
とりあえず、事象的にも学問的にも、他と比して優位があると言いたいらしい。そして優位はそれだけではないらしい。次の節では「存在問題の存在的優位」という似たような論考が繰り広げられるのである。
04/12/19
<参考文献>
『ハイデガー 存在と時間1』中公クラシックス(訳・原佑/渡邊二郎)
※1…数学を内容的に無意味な記号の矛盾のない演算体系とする。
※2…数学を基本的な直感を基礎として構成しようとする。
この定義そのものは何も言っていないので、意味がわからない。