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序論・第一章・第一節 存在の問いを表立って繰り返すことの必然性

 というわけで、序論・第一章・第一節に入っていく。この『存在と時間』の節は章をまたいでも繰り上がっていって全部で八十三節ある。一日、一節読んでいくとしても、今日から八十三日はかかるわけだ。まあ、気長に進めていこう。

 まずはこの序論の表題。「存在の意味への問いの開陳」とあるが、「開陳」とは「意見などを人の前で述べること」であるから、「存在の意味への問いについて」とでも訳してくれればまだわかりやすいのだが、まあ、そこは譲ろう。そして、四つの節からなる第一章「存在問題の必然性、構造、および優位」。必然性や構造はまだわかるとして、優位ってなんだ。それは第三節・第四節に書かれるようなので、それを待つことにして、まずは第一節の「必然性」に入っていこう。

 表題はこうだ。

 「第一節 存在の問いを表立って繰り返すことの必然性」。

 そんな必然性があるのだろうか。最初からハイデガーは「存在の意味」がプラトン・アリストテレス以来問われていないことについてひどく嘆いている。そして、その嘆きの実態は、このギリシア哲学で芽生えた存在論が、(多少の変化があったとしても)ヘーゲルの『論理学』まで一貫して信じられていることに向かっている。つまり、「存在の意味」が疑われていないということがどうも気に入らないらしい。確かにそれまでは「超越概念」として、つまり、前提条件として「存在」は考えられていたようだ。だが、それに対して三つほどハイデガー自身が疑問を投げかけている。それこそが、「存在の問いを表立って繰り返すことの必然性」であろう。



 1,「存在は最も普遍的な概念である。」と言われている。しかし、実際は「曖昧な概念である」と言う。

 注によれば、アリストテレスは『形而上学』第五巻第六章一〇一六b三二において、「類比の統一」ということを言っている。類や種(人類とかほ乳類とか)は種差の述語にはなりえないのに対し(「人間は社会的な動物である」と言えるのに、「社会的な動物は人間である」とは言えないのに対し)、存在<ある>は、どこにおいても同じ意味で述語になりうるので、「存在とは超越概念」であるとしている。

 が、ヘーゲルはこの存在の統一という問題を無視したらしい。具体的には例がないので、わからない。にもかかわらず「存在」を超越概念としても使用している。そういう意味で決して、「存在」は明瞭な概念ではなく、曖昧である。



 2,「存在は定義不可能なものである。」

 再び注から。存在を定義しようとすれば、「存在とは…である」と言わねばならず、自己矛盾する。それくらい根元的なものだ。

 だが、それで「存在」への問いが無効であるとは言えないとハイデガーは踏ん張る。「存在が定義不可能であるということは、存在の意味への問いを免除するのではなく、かえってこの問いを問うことを促すのである。」としている。



 3,「存在は自明の概念である」。

 誰もが「空が青くある」とか「私は喜んでいる」とかでその内容をすぐに了解する。

 だが、とハイデガーは言う。ひとつの謎が先天的に潜んでいる。了解するものの、それと同時に存在の意味そのものは闇におおわれている、と。


 この3つが「存在の問いを表立って繰り返すことの必然性」らしい。だが、どうも煙に巻かれたような気分だ。それはハイデガーとて同じ。ここでくじけてはならない。

 存在への問いそのものが、方向を見失っているから、問いの設定の仕方から仕上げていこうとハイデガーも言っている。だったら、こんなまわりくどいことしないで、最初からそうしてくれればいいようなものだが、きっとこんな感じでまだまだ続く。続けられるか不安になってきた。まだ第一節なのに。



04/12/5


<参考文献>

『ハイデガー 存在と時間1』中公クラシックス(訳・原佑/渡邊二郎)


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