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序論・第二章・第六節 存在論の歴史の破壊という課題

 先週に比べるとかなりすっきりした表題であるが、ことはそう単純ではなさそうだ。何しろ長い。しかもギリシア哲学・デカルト・カント・ヘーゲルといった哲学の歴史的な問題が続く。いや、そうした意味では今までのあまりにもメタな問いに比べ、わかりやすい内容ではある。基本的な西洋哲学のおさらいはわたしからはしない。いや手が回らない。ハイデガーが振り返る範囲内において歴史をおさらいしていくことにしよう。
 と、その前にどうして歴史に話が向かったのか、その辺りを確認しておこう。

  現存在は、そのつどおのれの現事実的存在において、おのれがすでにいかにあったかであり、また「何で」あったかである。表立ってであろうとなかろうと、現存在はおのれの過去である。ー中略ー現存在はおのれの存在の仕方においておのれの過去で「ある」のだが、この存在は、大まかにいえば、そのときどきにおのれの未来のほうから「生起する」のである。

 あまりにも唐突な発言だ。いや、彼にとっては唐突ではないのかもしれない。前回現存在と時間性について語ったうえでのことだ。「いかにして現存在が「時間の内で」存在するものの一つであるのかと言うことを別にすれば、同時に、現存在自身の時間的な存在様式としての歴史性を可能にする条件でもある」。そのうえで、現存在とは未来から「生起する」過去である、と言っている。相変わらずよくわからないが、話はどんどん進んでいく。

  現存在のこの基本的な歴史性は、現存在自身にはあくまで秘匿されたままであることもある。だが、そうした歴史性も、或る種の仕方で暴露され、それ固有の養育を受けることもある。現存在は、伝統を暴露し、保持し、伝統に表立って追従しうるのである。伝統を暴露することと、伝統が何かを「引き渡す」のかを、また、どのように伝統が引き渡すのかを開示することとは、それぞれの課題としてとりあげられうる。かくして現存在は、歴史学的に問いたずねるという存在様式のうちへと連れこまれるわけである。

 そういうことらしい。あるいは、別の言い方ではこうも言っている。

  存在問題を仕上げることは、存在を問うこと自身が歴史的に問うことだというその最も固有な存在意味にもとづいて、そこから、この問いに固有な歴史を問いたずねるべしという指令を、言いかえれば、歴史学的になるべしという指令を受けとらざるをえず、その結果、過去を積極的に我がものにすることにおいて、この問いの最も固有な諸可能性を完全に占有するに至るのである。存在の意味への問いは、この問いに帰属する遂行様式に応じて、言いかえれば、現存在をその時間性と歴史性とにおいて先行的に究明するものとして、おのれが歴史学的な問いだと了解するところまで、おのずから進んでいるのである。

 しかしながら、ハイデガーは苦しんでいる。「伝統」に対して。第一節でも示されたとおり、存在への意味への問いが明らかにされていないままだ。アリストテレスからデカルト・カント・ヘーゲルに至るまで、伝統的な「存在論」が存在論を自明なものとして、低落させていると嘆いている。
 こうして、ハイデガーは存在論の古典的解釈への解体に取りかかる。つまり、この「解体」が表題にもなっている「存在論の歴史の破壊」である。そして、これは単なる過去の批判ではなく、「現在へ向けられた」、「積極的な意図を持った」破壊であると訴えている。
 では、次に設定されるべき問いは何か。ハイデガーは次のように問う。

 はたして、またどこまで存在論の歴史の経過のうちで、総じて存在の学的解釈が時間という現象と主題的に結びつけられたのか、結びつけられえたのか、さらにはたしてそのために必要な存在時性の問題性が原則的に際立たせられたのか、際立たせられえたのか。

 これを検証していこうというわけだ。「根本的探求の道程をわずかながら存在時性という次元の方向において進め、ないしは、そうした諸現象自身に強制されてこの方向へと押しやられた最初にして唯一の人は、カント」と言い、そうしてカントの仕事を検証しようと試みる。
 カントが存在時性の問題を見抜けなかったことについて、二つの原因を挙げている。

1,存在問題一般がゆるがされていた。それと連関して、現存在の主題的な存在論が(主観の主観性の先行的な存在論的分析論が)、欠けていた。
2,カントの時間の分析が、時間というこの現象を主観のうちへととりもどしたにもかかわらず、伝承された通俗的時間了解内容のうちにあくまで方向を定めている。

 カントはデカルトの「我思う故に我あり」をそのまま引き受けてしまったこと。「我思う」と「時間」とのあいだに決定的な連関を見いだすことができぬままであったことを問題にしているようだ。
 さらに、先にもまとめたようにそれはプラトンの対話術的な形而上学の形成、アリストテレスの時間概念の分析、これら(ギリシア存在論)の上に成立したものであり、そこをもう一度、「建設的に」破壊しなければならないと言いたいらしい。

05/01/09


<参考文献>
『ハイデガー 存在と時間1』中公クラシックス(訳・原佑/渡邊二郎)

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序論・第二章 存在問題を仕上げるときの二重の課題〜根本的探求の方法とその構図 第五節 存在一般の意味を学的に解釈するための地平から邪魔者を取り払うこととしての現存在の存在的分析論

そうしてわれわれはようやく第二章に入った。しかし、この表題の長さは何だ。「存在一般の意味を学的に解釈するための地平から邪魔者を取り払うこととしての現存在の存在的分析論」。これは第六十一章「現存在にふさわしい本来的な全体存在の限界付けより、時間制から邪魔者を現象的に取り払うことへといたる方法的な歩みの下図」に次ぐ長さだ。
 ちなみに第二章の表題は「存在問題を仕上げるときの二重の課題〜根本的探求の方法とその構図」ということらしい。これから第五節・第六節・第七節・第七節A・第七節B・第七節C・第八節と七回にわたってとりあげられる。

 さて、ここでは「現存在にどうやって近づくか」ということが問題となっている。そして、近づくにあたっては邪魔者があるらしく、それを取り払わなければならない。そして、まず邪魔者となるのは第四節までで確認してきた「存在的・存在論的優位」への誤解だった。その誤解とは何か。またややこしい話になるが引用しよう。

  現存在というこの存在者は存在的・存在論的に第一次的に与えられている存在者でもなければならず、しかも、この存在者自身が「直接的に」とらえられうるという意味においてばかりではなく、この存在者の存在様式が同じく「直接的に」前渡しされているということに関してもそうだという見解である。現存在は、なるほど存在的には、身近であるばかりではなく、それどころか最も身近なものですらある。ーそのうえわれわれはそのつどみずから現存在なのである。それにもかかわらず、ないしはそれだからこそ、現存在は存在論的にはもっとも遠いものである。なるほど現存在の最も固有な存在に属しているのは、この最も固有な存在についてなんらかの了解内容をもち、おのれの存在の或る種の被解釈性のうちにそのつどすでにおのれを保持するということ、このことではある。

 つまり、現存在は最も身近で、最も遠い。だからこそ誤解が生じると言いたいらしい。「直接的」とか「前渡し」とかまったく理解できないままではあるが、それはそれでいい。現存在を考えるにあたって、どうしても特有の困難にぶつかるが、それらの困難は「この主題的対象とそれを主題化する態度自身との存在様式のうちにその根拠をもっている」のだということを再確認しただけのことだ。
 何を言っているのかいよいよわからなくなってきたが、とにかくこうした現存在に対する分析はあくまでも「暫定的」なのであって、完璧な存在論へ繋がるものではないということだ。そういうふうにハイデガーも書いている。ならばどうするか? 「最も根源的な存在解釈のための地平から邪魔者を取り払う準備をすべきなのである。」とハイデガーは言う。そうしてこの第五節の表題に戻ってきた。
 突然だが、ハイデガーが記した今までで最もわかりやすい現存在についての説明が出てきた。

  現存在は、存在しつつ存在といったようなものを了解しているという仕方において存在している。

 これはちょっとわかりやすい。いままでの繰り返しだが、最も端的に説明していると思う。
 で、ここから、唐突に(本当に何の前触れもなく)「時間性」という言葉が出てくる。この書のタイトルは『存在と時間』。時間についての考察ももちろんあるのだろうが、つまり、これこそが準備なのだろう。そう信じて進むしかない。

こうした連関を確保しながら示されなければならないのは、そもそも現存在がそこから存在といったようなものを表立たずに了解し解釈してくる当のものは時間であるということ、このことなのである。この時間が、すべての存在了解とあらゆる存在解釈との地平として明るみにもたらされ、まじりけなく概念的に把握されなければならない。このことを洞察されうるようにさせるためには、存在了解の地平としての時間を、存在を了解しつつある現存在の存在としての時間性から根源的に究明する必要がある。

 ハイデガーもまた突然な男だ。話が複雑すぎて、わたしのコメントも愚痴と諦めばかりになっているではないか。「現存在の存在としての時間性」って何だ。まったくわけがわからない。そこから根源的に究明すると言っている。そのヒントはこの文章の中にありそうだ。

「時間」は、昔から、存在者のさまざまな了解を素朴に区別する存在論的な標識、ないしはむしろ存在的な標識としての機能を果たしている。ひとは、「時間的」な存在者(自然の経過や歴史の出来事)を、「非時間的な存在者」(空間的関係や数量的関係)に対して区画づける。ひとは、命題の「無時間的」な意味を、命題を陳述することの「時間的」な経過に対して対照的に際立たせるのが常である。さらにひとは、「時間的」な存在者と「超時間的」な永遠なるものとのあいだに「裂け目」をみとめて、両者の橋渡しを試みる。「時間的」とは、この場合いずれも、(何かが)「時間の内で」存在していると言うのと同然であるのだが、これは、もちろんまだ十分曖昧でもある規定である。それでも、時間が、[何かが]「時間の内で存在している」という意味において、諸存在領界を区別する標識としての機能を果たしているということ、この現事実は成立しているのである。

 まったく今回は引用が長いが、自分の言葉に置き換えられないため、致し方ないことをご理解頂きたい。とにかく「時間」というのがどうも存在を振り分ける標識になっているということだ。で、「時間の内で存在している」ということだけでなく、「超時間的(永遠)に存在している」とか、「非時間的に存在している」とかもひっくるめて、「時間的だ」とハイデガーは言う。「永遠に」はわかるとしても、「非時間的に」を「時間的だ」と解釈するのはどうかとわたしは思う。それはハイデガーが勝手に「時間的か非時間的か」という座標を仕立て上げたに過ぎないんじゃないか。まあ、「時間を座標軸に存在を捉えよう」という試みなのだから、仕方があるまい。ここまで来たんだし、それに一度騙されることにし先に進もう。

われわれは時間にもとづく存在とその諸性格や諸様態との根源的な意味規定性を、存在の存在時的規定性と名付ける。だから、存在そのものを学的に解釈するという基礎的な存在論的課題は、おのれ自身のうちに、存在の存在時性を際立たせることを含んでいる。存在時性の問題性が開陳されるとき、そのうちでまずもって与えられるのは、存在の意味への問いに対する具体的な答えなのである。

 ここからはつまり、まさに「存在と時間」。しかし、よく知られているようにこの書物は未完のままだ。存在時性については開陳されないまま、ハイデガーは死んでしまったと翻訳者は注を付けている。詳細はこうだ。

 「存在時性」とは、時間性が現存在の存在の意味であるのに対して、存在そのものに与えられた時間性のことである。しかしこの存在時性という思想は、『存在と時間』が第一部第三編を未完のままで断念したことに応じて、その後、それとしては完璧な展開をみせなかった。」

 果たしてこれで邪魔者が取り払えたのか、今ひとつ釈然としないままだが、ここで第五章を終える。

05/01/02


<参考文献>
『ハイデガー 存在と時間1』中公クラシックス(訳・原佑/渡邊二郎)

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序論・第一章・第四節 存在問題の存在的優位

 先週予告したとおり、存在問題(「存在学」という学問があったとすればそれ)がどれだけ他の学一般と比較し、優位であるかを今回は存在的に検証するらしい。「存在的に優位である」とはどういうことか。またややこしい話になりそうだ。
 と思っていたのだが、今回は前回出現した「現存在」についての考察。さらに「実存」というキーワードも出てくるし、「実存性」または「実存的了解内容」という専門用語がたくさん出てくる。ここを越えないと「存在問題の優位」に近づけないようだ。

 まずハイデガーはこういう意味の内容で切り出す。
 「現存在は他の存在者より際立っている。なぜなら、現存在は他の存在者に比べ、存在自身と直接関わり合っているから。」
 つまり、「存在について考えている人間と、存在について考えていない人間では、存在について考えている人間のほうが優れている。暫定的に。」と言いたいらしい。いや、ただ考えていればいいと言うわけではなさそうだ。わたしの解釈ばかりだと誤解を広めることにもなりかねないので、引用する。

 現存在が存在的に際立っているのは、むしろ、この存在者にはおのれの存在においてこの存在自身へとかかわりゆくということが問題であることによってなのである。だが、そうだとすれば、現存在のこうした存在機構には、現存在のこうした存在機構には、現存在がおのれの存在においてこの存在へと態度をとる或る存在関係をもっているということ、このことが属している。しかもこのことは、これはこれで、現存在が、なんらかの仕方で表立っておのれの存在においておのれを了解しているということにほかならない。この存在者に固有なのは、おのれの存在とともに、またおのれの存在をつうじて、この存在がおのれ自身に開示されているということである。存在了解はそれ自身現存在の一つの存在規定性なのである。
(本書注・「存在は、しかしここでは、人間の存在(実存)としてだけ[考えられているの]ではない。そのことは以下に続く論述から明らかになる。世界内存在は、存在全体へと関わる実存の連関、すなわち、存在了解を、それ自身のうちに含んでいるからである。」と後年のハイデガーは注意を促している。)
現存在が存在的に際立っているということは、現存在が存在論的に存在しているという点にある。

 長い引用になったが、これを一読して内容を完全に把握できる人間などいないと思う。なんてややこしい書き方をするんだろうと、本当にハイデガーを恨むよ。とにかく、単に存在について考えているということではなく、存在へとある態度をとり、存在と関わり合っていなければならない。
 さらにこう続く。

  現存在が(みずからに固有のものとしての)それへとこれこれしかじかの態度をとることができ、またつねになんらかの仕方で態度をとっている(あの)存在自身を、われわれは実存と名付ける。

 ここでいう「実存」と「現存在」の区別が今の段階ではいまひとつはっきりしない。わからないのだが、非常に重要なポイントだという気がする。まあ、わからないのは仕方がない。このまま飛ばして先に進もう。というのも、「実存の問題は、現存在の一つの存在的な関心事」であり、「この存在的な関心事のためには、実存の存在論的構造が理論的に見通されている必要はない。」としているからだし、そもそも、この存在論的構造に対する問いは、実存一般を「構成している、存在論的な諸構造の連関」=「実存性」を解明するためにあるからだ。
 って、わたしの文章もまたややこしくなってしまう。つまり、実存は何によって構成されているかという問い=実存性もまた、これから問われていかなければならない。
 実存と現存在の問題は、つまりこれから少しずつ明らかになっていく。その前になぜ、存在の問題を問わなければならないのか、その優位性、あるいは重要性をと言った方がわかりやすいと思うが、明らかにしようという話だった。

 そこで、ハイデガーは存在問題の三つの優位を上げる。なぜ存在問題を問うことが重要か。
・第一の優位「存在的優位」…この存在者はおのれの存在において実存によって規定されているから。
・第二の優位「存在論的優位」…現存在はおのれの実存規定性にもとづいておのれ自身に即して「存在論的」であるから。
・第三の優位「存在的・存在論的優位」…現存在としてはふさわしくない存在者の存在も了解する必要があるから、つまり、すべての存在論を可能にするためにも、先んじてこの存在問題をこそ問い始めなければならないから。

 この第一の優位の「実存」と第二の優位の「実存規定性」という言葉の意味がわからないが、わからないままでよいと思う。とりあえず、これでハイデガーは満足したらしい。優位であることを実証できたと思っているようだ。こうして読んでいる時代を超えたわたしという現存在に伝達できずして、満足したらしい。まあ、いいよ。それならそれで。
 というわけでいささか強引だが、ようやく序論の第一章が終わったのだった。パラパラッとページをめくってみると、来週、再来週はさらに長くなるようだ。大丈夫か、本当に。

04/12/26


<参考文献>
『ハイデガー 存在と時間1』中公クラシックス(訳・原佑/渡邊二郎)

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序論・第一章・第三節 存在問題の存在論的優位

 この説は正直言ってあまり重要でないように思う。この判断が正しいか正しくないかは、最終的に読み終わるまでは何とも言えないが、直感的に重要でないと判断した。
 そもそも何が言いたいのか、いい加減このハイデガー野郎のもったいぶった言い方に苛立たされるばかりではっきりしない。とりあえず、読んでいこう。

 ハイデガーはここでわたしの苛立ちを察してか、こんな感じではじめている。
 「何度も何度も存在問題を取り上げているけど、繰り返しているのは、尊厳に関わる問題だからだし、にもかかわらず明確な答えがないからだよ」と。じゃあ、この問いがそもそも何の役に立つのか。わたしが嫌気をさしているのに気付いたのか、自分で問題にし始めているのである。そして、こう言う。

 存在は<…略…>諸領域を限界づけたりするための分野となりうるものである。たとえば、歴史とか、自然とか、空間とか、生命とか、生存とか、言語とかいったそれらの特定の諸事象領域は、それ自身としては、それぞれに対応する学的な探求において、対象として主題化される。

 要は、存在という問題、「存在」を学的に問うことが、他の諸分野の学問と比較したいらしい。そして他の諸分野の学問でもまた、根本的に問い直す傾向にあると言っている。(つまり、そうした手続きを踏まえるべきであると暗に言っているのではないか。)
 一見厳密な数学も、基礎付けに「形式主義」と「直観主義」で対立しているし、物理学も相対性理論によって物質の問題に直面している、生物学も、歴史学も、神学も…というように、どれも「根本概念」が問われている、と言いたいらしい。
 そして、存在問題は、それらの諸学問の前に、「何をいったいわれわれは『存在』という言葉でもって指しているのか」ということに関して、まえもって相互了解を取り付けておく必要のあるものなのである。
 

 すべての存在論は、たとえそれがどれほど豊かな強固にかためられた範疇体系を意のままにしていようとも、それがあらかじめ存在の意味を十分明瞭にしておかず、この明瞭化をおのれの基礎的課題としてとらえておかないときには、根本的において盲目であり、おのれの最も固有な意図を顛倒するにとどまるのである。

 何が言いたいんだ、お前は。お前は。二回、言っちゃったよ。
 とりあえず、事象的にも学問的にも、他と比して優位があると言いたいらしい。そして優位はそれだけではないらしい。次の節では「存在問題の存在的優位」という似たような論考が繰り広げられるのである。

04/12/19


<参考文献>
『ハイデガー 存在と時間1』中公クラシックス(訳・原佑/渡邊二郎)

※1…数学を内容的に無意味な記号の矛盾のない演算体系とする。
※2…数学を基本的な直感を基礎として構成しようとする。
この定義そのものは何も言っていないので、意味がわからない。

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序論・第一章・第二節 存在への問いの形式的構造

そして第二節へ入っていく。で、いきなり余談だが、ここに入るまでに実は4ヶ月以上もの時間を費やしてしまった。なぜなら、この第二節は意外と長いのだった。長くてまとめるのがつらくなったというのが正直なところだ。そして、なにより非常にややこしい。この文章を一度で理解できる人間などいないのではないか。それくらいややこしい。
しかしここでは、おそらくハイデガーの重要なキーワードともなりうる「現存在」が出現してくるし、ややこしいがゆえに整理を怠るとおそらく先に行けば行くほど辛くなるだろうことは容易に想像できるわけで、ここでは丁寧に進めていく。

まず、ハイデガーは「問いとは何か?」という「問い」を設定する。
問いとは一つの探求であり、探求するものは探求されるものによって、その方向を定められている。という。また、後年には「探求されるものによって導かれている」と言い換えている。
どういうことか?
最初に何かを問いを立てて、そこから余計なものをそぎ落としていき、純粋な概念として抽出しようと試みることだとわたしは解釈した。
それとは別に「単なる問い」つまり、「これって何ですか?」とわからないから問うというようなこともあるが、その疑問に答えようとすれば、自ずと「探求」していかなければならないのであり、そしてその探求には、必ず何らかの(漠然としたものであっても)手がかりがある。その手がかりこそが、「探求されるものによって導かれるもの」だろう。

そして、問題の「存在への問い」、つまり「存在とは何であるか?」という問いに入っていく。
ここがややこしくしているところなのだが、「問いとは何か?という問い」が「問いの中に問いがある」というメタな問いであるのと同様に、「存在とは何であるか?」もまた、この存在への問いの中にすでに「存在」が前提とされているメタな問いである。そして、あるとは何かわからないまま、いや、漠然と了解したまま、使用している。だとすれば、何が「漠然と」させているのか、曖昧にしているのか、ハイデガーの言葉を使えば何が存在という概念を「暗くしているのか」、そこを問うことが重要になってくるのだろう。
こうした存在への(漠然とした)了解を「平均的な漠然とした存在了解」とハイデガーは呼んでいる。あとでも出てくるので重要だ。※ここでは、わざわざ戻って付け足した。

そして、次に問うている人(存在者)の問題がある。長くなるが一緒に読んだ気分を味わってもらうためにも、このややこしい文章を直接引用しよう。

 存在が問われているものであって、しかも存在とは存在者の存在のことであるかぎり、存在問題において問いかけられているものは存在者自身であるということになる。この存在者はいわばおのれの存在を目指して試問されるのである。だが、存在者がおのれの存在の諸性格を誤りなく呈示しうるはずであるなら、この存在者は、おのれの側であらかじめ、おのれ自身に即して存在しているとおりに近づきうるものになっていなければならない。存在問題は、そこで問いかけられているものに関して、存在者へと近づく通路の正しい様式を獲得し、前もって確保しておくことを要求するのである。

この修飾語が重なる「存在者へと近づく通路の正しい様式を」と入力したところで、ATOKにも<修飾語の連続>を指摘されているとおり、それがまた話をややこしくしている。だが、ここで語られる「存在の真理を探求する存在者」を「現存在」とハイデガーが呼ぶように重要なポイントである。辛抱しよう。後年にはこの「現存在は何か=存在の真理を問う存在者とは何か」という問題と、「存在の真理を問う」問題の二つをはっきりと分けて考える必要があると言っており、だったら最初からそうやって書いてくれればいいようなものをと思うものの、そこもじっと辛抱だ。
やや急いた。現存在とは何か、術語的(テクニカルに、あるいは学術的に)にどうやって定義されたのか確認しておこう。

 存在問題を仕上げるとは、或る存在者をー問いを発する存在者をーその存在において見通しのきくものにすることである。存在問題を問うことは、或る存在者自身の存在様態として、この問うことにおいて問いたずねられている当のもののほうからーすなわち存在によって、本質上規定されているのである。われわれ自身こそそのつどこの存在者であり、またこの存在者は問うことの存在可能性をとりわけもっているのだが、われわれはこうした存在者を術語的に、現存在と表現する。

話を前に進めよう。
それでも、ハイデガーはまだ心配している。こうして「存在を問う存在者」つまり、「現存在」の存在とは何かという循環に陥ってしまうのではないか、と。
だが、ここでハイデガーはくじけない。
「存在とは何か?」という問いそのものが存立することは誰も否定しないだろう。
つまり、「存在」はすべてのこれまでの存在論において「前提されて」はいるが、しかしそれは、意のままになる概念としてではない。という結論に達したようだ。ここでの存在者の存在もまた、先の「存在とは何であるか?」の問いと同じく、あの平均的で曖昧な存在了解と同様であり、いやそもそも、現存在自身の本質機構に属するものであるから、そこを問い直すことと、これを「一つの証明されざる根本命題を発端に置くこととは、なんら関係がない。としている。

ここでわたしたちが戸惑っていたのは、問うこと(存在とは何か)がその問われること(存在)によって、本質上絡みつかれていたからだ。と、ハイデガーは言う。そして、それはすでに「現存在」が「存在」より優位にあることを示唆しているのではないかと、言う。
ここでようやっと、「優位」という言葉が出てくる。これについてはまた来週、第三節で検証していくことになるだろう。いや、長かった。

04/12/12


<参考文献>
『ハイデガー 存在と時間1』中公クラシックス(訳・原佑/渡邊二郎)

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序論・第一章・第一節 存在の問いを表立って繰り返すことの必然性

 というわけで、序論・第一章・第一節に入っていく。この『存在と時間』の節は章をまたいでも繰り上がっていって全部で八十三節ある。一日、一節読んでいくとしても、今日から八十三日はかかるわけだ。まあ、気長に進めていこう。

 まずはこの序論の表題。「存在の意味への問いの開陳」とあるが、「開陳」とは「意見などを人の前で述べること」であるから、「存在の意味への問いについて」とでも訳してくれればまだわかりやすいのだが、まあ、そこは譲ろう。そして、四つの節からなる第一章「存在問題の必然性、構造、および優位」。必然性や構造はまだわかるとして、優位ってなんだ。それは第三節・第四節に書かれるようなので、それを待つことにして、まずは第一節の「必然性」に入っていこう。

 表題はこうだ。

 「第一節 存在の問いを表立って繰り返すことの必然性」。

 そんな必然性があるのだろうか。最初からハイデガーは「存在の意味」がプラトン・アリストテレス以来問われていないことについてひどく嘆いている。そして、その嘆きの実態は、このギリシア哲学で芽生えた存在論が、(多少の変化があったとしても)ヘーゲルの『論理学』まで一貫して信じられていることに向かっている。つまり、「存在の意味」が疑われていないということがどうも気に入らないらしい。確かにそれまでは「超越概念」として、つまり、前提条件として「存在」は考えられていたようだ。だが、それに対して三つほどハイデガー自身が疑問を投げかけている。それこそが、「存在の問いを表立って繰り返すことの必然性」であろう。



 1,「存在は最も普遍的な概念である。」と言われている。しかし、実際は「曖昧な概念である」と言う。

 注によれば、アリストテレスは『形而上学』第五巻第六章一〇一六b三二において、「類比の統一」ということを言っている。類や種(人類とかほ乳類とか)は種差の述語にはなりえないのに対し(「人間は社会的な動物である」と言えるのに、「社会的な動物は人間である」とは言えないのに対し)、存在<ある>は、どこにおいても同じ意味で述語になりうるので、「存在とは超越概念」であるとしている。

 が、ヘーゲルはこの存在の統一という問題を無視したらしい。具体的には例がないので、わからない。にもかかわらず「存在」を超越概念としても使用している。そういう意味で決して、「存在」は明瞭な概念ではなく、曖昧である。



 2,「存在は定義不可能なものである。」

 再び注から。存在を定義しようとすれば、「存在とは…である」と言わねばならず、自己矛盾する。それくらい根元的なものだ。

 だが、それで「存在」への問いが無効であるとは言えないとハイデガーは踏ん張る。「存在が定義不可能であるということは、存在の意味への問いを免除するのではなく、かえってこの問いを問うことを促すのである。」としている。



 3,「存在は自明の概念である」。

 誰もが「空が青くある」とか「私は喜んでいる」とかでその内容をすぐに了解する。

 だが、とハイデガーは言う。ひとつの謎が先天的に潜んでいる。了解するものの、それと同時に存在の意味そのものは闇におおわれている、と。


 この3つが「存在の問いを表立って繰り返すことの必然性」らしい。だが、どうも煙に巻かれたような気分だ。それはハイデガーとて同じ。ここでくじけてはならない。

 存在への問いそのものが、方向を見失っているから、問いの設定の仕方から仕上げていこうとハイデガーも言っている。だったら、こんなまわりくどいことしないで、最初からそうしてくれればいいようなものだが、きっとこんな感じでまだまだ続く。続けられるか不安になってきた。まだ第一節なのに。



04/12/5


<参考文献>

『ハイデガー 存在と時間1』中公クラシックス(訳・原佑/渡邊二郎)


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前文を読むという前文

 プラトンの『ソフィステース』の引用から始まるそれは、「存在」という問題が古くから問われ続けたことを意味しながら、今もなお不明確で困惑を呼び起こす問いであることを再確認させるためのものか。

 わたしが、とここでわたしが出現することに違和感を覚える方もいるかもしれないが、おそらくこれからもしばしば登場する。なぜなら、ここに書かれるものは、当然のことながら『存在と時間』ではなく、『存在と時間』を読みながら考えるわたし自身の記録だからだ。誤読や解釈の間違いは当然のものとして進めさせていただく。

 ハイデガーがこの『存在と時間』を書くことで意図するところは、この前文にある。もちろん、わたしはまだこの書を最後まで読み切っていないから後半に入るに連れそれは作者の意図と異なるものになるかもしれないが、「目標」と本人が書いているのだから仕方ない。まずはそれを信じよう、では、その目標内容を確認したい。


 存在の意味への問いをあらためて設定すること。

 この問いの意味を明らかにするなんらかの了解を、まずもってめざめさせること。

 「存在」の意味への問いを具体的に仕上げること。

 あらゆる存在了解一般を可能にする地平として時間を学的に解釈すること。



 これが『存在と時間』が書かれた意図である。

 しかし、最後の段落には戸惑ってしまう。私の理解力が悪いのか、原文が悪いのか、翻訳か。その問題はとりあえず棚上げさせていただいて、わからない場合はそこで立ち止まることにする。それがここでの作法とする。


 <略>……以下の論述のさしあたっての目標なのである。

 そうした目標をねらうこと、そうしたもくろみのうちに含まれていて、このもくろみによって要求されている諸研究、およびこの目標へいたる方法、これらのことは、序論の役目を果たす解明を必要としている。



 目次を見たところ「序論」というのは、この「前文」のことではなく、この後に続くまさに「序論」のことだと思うが、ここでいくつかのことを解明しようとしているらしい。

 言い換えれば、こういうことだろうか。

 つまり、序論において「なぜ存在の意味をあらためて問い直すのか、そしてどうやって問い直すのか」を明確にする。だとしたら、この前文はなんのためのものだ。わたしは早速裏切られた気分である。しかし、わたしがこの『存在と時間』を読み切るために、作者を信じるしかない。

 それにしても、わかりにくくしているのは、「そうしたもくろみのうちに含まれていて、このもくろみによって要求されている諸研究」という言葉の運びであり、何度読んでもわからない場合は、先へ進むことにする。それがここでの作法とする。問題は何がわからないかだ。それが今はわかった。のだと思う。



04/11/28


<参考文献>

『ハイデガー 存在と時間1』中公クラシックス(訳・原佑/渡邊二郎)