●レヴィ=ストロースが亡くなったというのはYahooなどのニュースでは見かけないので、内田樹先生のBlogで知る。いわずとしれた構造主義者の第一人者でもあるが、すでに歴史的人物のような存在のようではあったものの、改めて亡くなったのだということを知ると、「またひとつの時代が終わっていく」と何だか感慨深いものがある。
●さて、そんなふうに大きな時代が終わっていくように、小さな年もまた終わっていく。そんなわけで、2009年も残す2ヶ月あるわけだが、手帳を変える。正確には手帳の中のリフィルを変える。スケジュールで使うのは月間のカレンダーのみ。あとは無地のノートと罫線のノート、あとは方眼のノートをただ挟んだだけだ。今年はこれで行きたい。あとそれを手帳から外に出す際にまとめられるバインダーも購入。Amazonから届く。
●今日もまだまだ寒いので、炬燵を出す。明日はまた暖かくなるようだが、とにかく炬燵は出した。これですっかり冬モードである。そうしてまた一つの季節が終わる。
日本各地巡り
普遍的なもののなかでの
あたかも、普遍と個との間の行き来は、現実の舞台で行われるのに反して、普遍的なもののなかでの生活は、ただ舞台背景の書き割りに、描きこまれていくかのように見えるものである。
フランツ=カフカ(『実存と人生』第四のノートから)
夜の到来、影の侵入
芸術はある特殊な型の現実を認識するわけではない。ー芸術は認識とは際立った対比をなすものなのだ。芸術は不分明化という出来事そのものであり、夜の到来であり、影の侵入である。
(エマニュアル=レヴィナス『レヴィナス・コレクション』「現実とその影」より)
最近の活動
懲りない
●2週間以上前に掛かってきたある電話業者の同じ営業の電話がかかってくる。まあ、その電話のかけ方がひどかったので、それだけでイライラさせられたわけだったが、その上で、わざわざ東京から来て、結局ひかり電話では駄目だとわかり、そのまま帰って行ったという経験を持ちながら、また別の営業マンが電話をかけてくる。よっぽどノルマが厳しいんだろうなあ、とは思うものの、帰って本質的なところではイメージも悪く、基本的にこういう企業とわたしは絶対契約しない。
●あと、環境関係の人と話をするのだけれど、これも果たしてどこまで本当なのか。大企業がこぞって環境マネジメントを進めていく時代があり、それが済し崩し的に続く中、これらはおそらく下記環境倫理学の基本三方針によっているところが強いのだろう。
自然の生存権
人間だけでなく自然も生存の権利を持つ、人間は自然の生存を守る義務を持つ、といった考え方。「自然と人間の共生」という考え方にまとめることもできる。より強く権利を主張する自然の権利の考え方をある程度抑制したもので、行き過ぎた自然中心主義ではなくあくまで共存・共生を念頭に置き、公平な議論を目的とする。
世代間倫理
現在を生きている世代は、未来を生きる世代の生存可能性に対して責任があるという考え方。現在のように世代間に横たわる不均衡を調整する、という意味で「世代倫理論」「世代間調整」とも言う。深く論議していくと論理的矛盾も出てくるが、「現在世代の未来世代への責任」はある程度受け入れられている。現在を生きている人類が、環境問題の解決に当たって、先延ばしせず責任を持って行動するための根拠となる。
地球有限主義
他の目的よりも有限な地球環境を守ることを優先する、生態系や地球資源を軸に物事を考える、といった考え方。他の目的とは、快適な生活、経済的利益、健康、幸福など、人類にとっての利益を意味する。人類への利益の最優先ではなく、行き過ぎた地球環境の最優先でもなく、持続的に生態系や地球資源を利用していこうという主張。 Wikipedia-環境倫理学より-
●くれぐれも注意しなければならないのは、環境を金に換えようという者たちがいくらでもいるということだ。環境改善そのものが目的ではなく、環境を道具に金を目的とする人間を見分けるのもかなり面倒なことになる。
言語は思考を前提するのではなく、これを実現する。
わたしたちは内的な言葉や外的な言葉によって、自分の思考を示すのであり、[言葉で表現することは]実際には思考の経験なのである。
もちろん思考は、一瞬のうちに稲妻のように進む。しかしわたしたちはその後、思考を自分のものとする作業をしなければならない。そして思考が自分のものとなるのは、表現によってである。
メルロ=ポンティ『知覚の現象学』より
Web開設10周年
見学者のホームページは、旧劇団時代の1999年2月22日に開設されました。
それから本日で丸10年を迎えました。
ほぼ毎日のように日記を書き続けました。ほとんど日記だけの更新でしたが、これを機にTOPページも新たにしていきます。
今後とも見学者及びkengakusha.comをよろしくお願いいたします。
トルストイとドストエフスキー
ドストエフスキーとトルストイ
バフチンは「ドストエフスキーの詩学」において、ドストエフスキーとレフ・トルストイの文学の明確な差異を、画期的なポリフォニー論などによって示した。
ドストエフスキーの文学においては、上記のように客観的に叙述し得る単一的な真理は存在せず、各人の思想が否定されずに尊重される。各登場人物は、作者ドストエフスキーと同じように、1人の人間として思想や信念を固持する権利が与えられている。それはすなわち人格の尊重である。ところがトルストイの小説においては、しばしばトルストイの考えに登場人物が近づくことが、真理への到達と同視される。そしてトルストイと反対の意見を持つ人物は、しばしば自己完成からは程遠い人物として描かれるのである。バフチンはこれをモノローグな構成として批判した。(Wikipedia ミハイル・バフチンより)
という話がまずあって、いや、そもそも「管理とは何か」という話なのだけれど、まあ、英語で言えばコントロールなわけで、そもそも経済活動も含め、ある種「コントロールできる」という思考が前提としてある。わたしは見学者ではとことん万物の事象は最終的にコントロールは出来ないという立場でものをつくってきたつもりであるが、こと会社の仕事のことを考えていくと、あるいは管理者の仕事ということを考えていくと、コントロールを前提条件として外すわけにはいかなくなる。「制御できないデンジャーを制御できるリスクに変換する」とは内田樹先生の言葉だが、またデータベースのような非常に0/1の世界のことを考えていると、いよいよ管理とは何か考えざるを得ないのだった。
もちろん、二分法も「0/1」から「00/01/10/11」、「000/001/010/011/100/101/110/111/」というように倍々に増えていくわけで、思考法をそのように倍々に増やしていけば、不特定多数のデンジャーもリスクに変換可能ではないかと考えないわけにはいかない。
つまり、経済活動を行って行くにあたって、もちろん会社の安定・社員の安定生活を考えていけば、「なんだかわからないけど、たぶん大丈夫だ」という根拠のない自信は、それは、管理ではない。「こうすればこういう危機が訪れる可能性があるが、こう対処することでそれをカバーする」という筋道を立てなければならなくなる。
おそらくそうした思考ばかりをしていると人間としてはかなり貧しくなる可能性がある。わたし自身は少なくともそう感じている。しかし、同時にこの不安定な世界の中で安定した収入を確保するためには、その責任が各人にある。そしてそうする人たちを守る責任がわたしには付いてしまった。こうすればこうなるのではないかと推論を出すことそのものは面白い。その面白さを楽しみながら、今はその責任を全うすべくやるしかない。
再始動に向けて
現在、再始動に向けての準備中です。
過去の記事等につきましては、こちらからご参照下さい。
『死と身体』
●『死と身体—コミュニケーションの磁場 (シリーズケアをひらく)』という内田樹氏の本を読み始める。
河合隼雄先生が亡くなった今、わたしにとっては内田先生との出会いは新たな大きな一歩である。N氏から勧められていた『寝ながら学べる構造主義』もまた内田先生の本だったが、個人的には内田先生がレヴィナスを師匠と仰いでいるところに運命的なものを感じた。そして、何より言葉がすんなり入る。
この本の第四章『わからないままそこに居る 身体と倫理』は非常に示唆的なタイトルだ。
ここから、また思考的にも次の一歩を踏み出せるような気がする。
その狭間
●今日はいろいろと思いつくことがあったが、まだ整理しきれない。
たとえば、ポスト構造主義と構造主義の狭間にあるところの認識の違いのようなものが、何となく横たわっていて、どちら側からその人が話をしているのか何となくわかると実はかなりコミュニケーションはかなりスムーズに進むのではないかという話。
あるいは20世紀の思想と21世紀に向けての思想の狭間の話。
●疲れがひどい。一向に片付かないものがあるが、もう限界。目もかなり充血中。