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アートからソーシャルアクションへ

●『語りきれないこと—危機と傷みの哲学』(鷲田清一・著/角川oneテーマ21)を読了した。長くジワジワと読んでいた。
三つの章からなる「第1章 「語りなおす」ということ」「第2章 命の世話」「第3章 言葉の世話」。
 だいぶ間が開いて、第三章を読む。

アートは、人びとと同じ世界にまみれながら、その世界の諸要素が別様に配置される可能性を直感し、それをめがけて、世界を破る、こじ開ける、狂わせることを企む。シュルレアリストのかつての合い言葉を借りれば、「生活を変える」ことをもくろむ。だから、抵抗がないということは、世界をまだ破れていないということだと感じる。「危なくない」アートは飾り物にすぎないと感じる。

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●昨今の地方でのアートフェスタでの、現代美術の受け入れられ具合に辟易する声があったというのをどこかで見たが、なるほどそういう声だったか。
 ここ数日ずっと考えているテーマでもある。アートとデザイン。アートからソーシャルデザインへ。そのために手段としてポップであり開かれていること。ただ、「尖りながら」というのがわたしの中では必ず必要で、それなければ「危なくない」飾り物に成り下がる。
 つまりこの問題は、わたしがこの地方でどのように演劇と関わっていくか考えるキッカケをくれる。
●自分の気心の知れたコミュニケーション圏に閉じこもることなく、他のコミュニケーション圏とどう話をするか。
 そのために、何の利害関係もない市民があつまって、一つのテーマについてただ語り合い、そこから一つの劇とも言えない劇を作り上げていくことについて考えていた。短いスケッチを考えながら、それを構成していく手法でもよい。ソーシャルアクションとしての活動が何かできるかもしれない。

●それ以外にも考えさせられることはたくさんあった。
 価値判断を専門家まかせでなくわたしたちが市民となって自分たちですること。
 パブリック・オピニオン(公論・世論)とポピュラー・センチメント(民衆感情)、日本人はあくまでも動いているのはオピニオンではなく、センチメントで動いていること。だからこそ、新たにオピニオンをまとめるための技術を高める必要がある。
 日本で「責任」を声高に(つまり、感情的に)叫ぶ声に激しい苛立ちを持ちながら、わたしたちが今取り組むべきは、もっと具体的に何をどうするかを新しい意見を合意させて、形成していくこと。「語り」のしくみそのものを、作り直すこと。
●そのためにも、身体感度を高めること。おかしなことや不快さに正直であること。そして、相手を倒すための議論ではなく、自分も変わるために、差異を認めるために対話をすることだ。

●もっとつっこんだ本質的なところまで書けていないが、続きは明日にしよう。深夜の地震ですっかり目が醒めてしまったが、眠らなければ。

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ゴドー追悼の秋から

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●やはりこちらにいると眠りが浅いようで、夢を見る。見たい夢も見られる。
●朝。14度ということだった。カーディガンを一枚羽織っていったが、それでも外に出ると寒い。日本も涼しいようだし、いよいよクールビズも終了かと、ビニールジャンパーのシャカシャカと擦れる音から知る。半袖の人がいて、パーカーとか、薄手のコートとか、Tシャツとかが交錯する。

●ふいにこれから寒くなることを考えると、あの大きな祭りが終わったあとであろう2021年1月の光景が目に浮かんできた。
●10年代という多幸感溢れる夏は何かを一生懸命に忘れるための、祭りなのだろうか。だからこそ20年代の秋のことを今から考えなければと思った。むしろそこで力を発揮できるようなサービスを、製品を、仕事で提供できるようになっていなければと考えたし、作品もそのときに見ても耐えられるものであるのか考えておかなければと思った。
 2020年の夏が終わり、10月になると、わたしは44歳だった。
 そんな未来について考えていると、こんな言葉に出会う。
 自分にとって心地よい言葉に浸るところから一度出て、今まで避けていた人の言葉を聞いたりしていると、そこにはまた別の光景が広がっている。そこにまた新しい発見がある。


◎わたしは追憶の中で生きているのか。ゴドーに線香をあげ続けているのだろうか。盛り上がりも終焉もない、その瞬間のなかで永遠に生き続けること。
●そんなことを考えたこともなかった。単純にわたしはもう二度と来ないゴドーを追悼していただけだったとしたら、それもまた虚しい人生ではないだろうか。

●こんな時は思いっきり道に迷う。迷いながら進む。それは結構慣れている。いつもそんなふうに書いているし、みずからが揺らぐことからようやく何かが思いがけず発見できると考えている。そうやってしか出会いたいものに出会えない。目的通りにばかり動いてたまるか。
 よし。今日も少しずつでも書き進めよう。ゴドーを追悼するためでも、待つためでもないものを。

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ワン・オブ・ゼム/<ひと>の現象学より

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●この回は長かった。そして、話の内容は多岐に渡る。一昨日一度じっくり読んで、また昨日まとめながら読み、今日また移動しながら読んで、読み返す度に気付くことがあるということは、数回の読みでは拾えていないということだ。
 わたしの詳細になりすぎた読書ノートのまとめはEvernote内に入れておくけれど、ただ、今回のこのテーマは最もわたしの関心の高い「多様性」についてである。これを重要なポイントだけまとめあげるのはむずかしい。

●ここで語られるのは、現在、あらゆる場面において圧倒的な力を持つ「多様性」というイデオロギーをどう捉え直すかというのが一つ。
 それに関連する形で、「相対主義」「反相対主義」をどう考えるか。「反ー反相対主義」の観点から。
 三つ目はここまで何度も繰り返し続いている近代プロジェクトの流れから考えたところの「人格の多様性」あるいは、相対主義の流れで「異に触れるとはなにか」ということについてだ。

●このブログでは、このなかの最後の三つ目の部分だけに注力してまとめたい。

●わたしは昨日書いた日記はあきらかにここを読んだ影響を受けている。しかし、まだこの時点では勘違いしていた。本書ではこういう書かれ方をしている。

「わたしたちは他の人たちの生をじぶんたち自身が磨いたレンズを通して見るのであるし、他の人たちもわたしたちの生を彼ら自身が磨いたレンズを通して見る。」

◎問題はこの先、この見方をどういう捉えるかということだ。それには二つある。

◎ひとつめは「異なる文化に属する人びとは異なる世界に住む」、だから「しょせん、じぶんたち自身が磨いたレンズを通してしか見られないし、他の人たちもついにわたしたちの生を彼ら自身が磨いたレンズを通してしか見られない」とする行き止まりの考え方。
 他者を理解することを、他者とおなじ考え、おなじ気持ちになることだと思ってしまいがち。しかし、これは、他の言語を自言語に置き換えてゆくなかで、他言語を次第に習得するプロセスとおなじであり、「同郷人、同国人、おなじ言語を話す人、おなじ宗派の人…といったふうに地球市民にまで拡げられ、そしてそういう<同化>の延長線上で「人類」という考えに到達する」という「異人が異人でなくなっていく」過程そのものだ。

●わたしもまさにこの罠にはまっていた。昨日の書き方もそうだ。ではどういうことか。もう一方はつまり<同化>ではないということになる。少し引用しよう。

 他者を理解するといういとなみは、他者とのあいだに何か共有できることがらを見いだすというかたちで拡張されてゆくものではなく、他者にふれればふれるほどその異なりを思い知らされる、つまりは細部において差異が、それぞれの特異性が、際立ってくると言うことの経験を反復することから始まるということだ。

◎もう一方の捉え方は、まさに差異を、特異性を、むしろどんどん知っていくことという考え方だ。
 しかし、だとしたら、他者との相互理解は可能なのか。「他者同士は交わることはないのか?他者とたがいに浸食しあうという出来事はないのか?」ということになる。
 それについて鷲田氏はこう言っている。

 「他の人たち」、他の言語文化に接触することで、じぶんのレンズの屈折率がかえられてしまうということもふつうに起こりうる(中略)レンズにはさまざまの偏差が刻印されているのであって、この偏差は他との遭遇によってさらにさまざまの偏差を呼び込む。複雑に増殖してゆくその偏差の総体をなにかある「特性」として括り上げることはできない。わたしたちが「日本人」と言われても、「男」あるいは「女」と言われても、「大人」あるいは「子ども」と言われても、どうしてもそうした括りがしっくりこず、どこかそれをはみだす、あるいはそれからずれていると意識してしまう。

◎人格の話も、一人の人間が一つの人格を持っているように(周囲からの期待や拘束などから)そう見えるだけで、あくまでもそのつど統合されているに過ぎない。
 「人格はつねにその偏差を生み、またそれを組み換える不断のプロセスのなかにある。」偏差の中で、ズレを生み、引き裂かれ、あるいは部分は欄外に溢れる。

●あなたがわたしになること、わたしがあなたになること(同化)ばかりを考えていた。つまり、自己の投影、他者の中に自己を見ることばかりを考えてしまった。
 境界が曖昧になってそれが溶けていく状況、まさにそのことを書きたいと考えていた。しかし、どうやらそれだけではもう一歩足りないこともわかってきた。
●つまり、同化ではなく、その「わたし」という存在そのものが「他」や「異」に触れることで、常に変化することで存在するわけだ。ある一つの役割の中にずっと居続けること息苦しさはここにもある。いくつもの役割の中をゆるやかに変化しながら、その都度「何か」になる。
 そうして、「わたし」はある意味では、近代の枠の要望に応えつつ「わたし」ではないまた別の「わたし」へとなるのだ。わずかなズレを繰り返しながら。

●かなりはしょったはずだったが、やっぱり長くなった。しかし、この二ヶ月間「わたし」がずっと悩んできたことの答えの一つはここにあった。ようやくここまできた。

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便利にすることの理由

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●便利なものが登場したことによって失われたものについてここしばらくずっと考えてきた。
 それを代表するのはいわゆる戦後日本の三種の神器「白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫」から高度経済成長期にはいわゆる3C「カラーテレビ・クーラー・カー(車)」に。2000年代には「デジカメ・DVDレコーダー・薄型テレビ」と一般的に言われている。

●中国では文革から短いスパンで急激な高度成長を遂げた。日本のようにゆったりと三種の神器が変遷したわけではない。10年前わたしが駐在していた頃から、パソコンと車が一気に来たのだし、車を持つ人びともますます増える一方だ。
 それは第二次産業による高度成長と、いわゆる「IT革命」が同時にやってきたようなものだ。
●しかし、それとは別に彼らは旧正月にはまだ家族のために苦労して長距離を移動して田舎に帰り、家族を大事にしようという習慣が残っている。

●そういう意味でもっとも大きな差はやはりコンビニなのだと思った。コンビニが日本の家族を解体させた、と改めて思う。

●とはいえ、コンビニを代表する便利なものをわたしたちはここにすべて置いて前近代的な生活に戻ることはできない。
 これからもまだまだ便利になり、」「動かなくて良くなるし、考えなくて良くなる」だろうし、「一人で生きていける」ようになるだろう。

●そんななか、敢えて「動く」「考える」「誰かと共生する」ことと、数々の「面倒」を受け入れることが、「消費」とは別の次元でわたしたちが社会の中に存在することの意味を与えてくれる。

●同時にまだ便利にするための方法を散々考えて仕事している。
 どうやったら入力が減るか、どうやったら移動の歩数が減るか、どうやったらシステムはより完全になるか、どうやったらより無駄なく正確にできるか。どうやったら楽にできるか。
●わたしはわたしでBluetoothでテレビの音をどうやって同時に少し離れたキッチンでも鳴らせるか、そんな装置を探したりしている。
 または、どういう仕事場のレイアウトがベストだろうかと考える。楽にするために。

●なんのために楽にするのかわからなくなりながら。

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帰国/iTunesUで再会するフーコー

●中国南方航空で帰国。
●大連空港では毎度立ち寄るお土産屋さんで顔見知りになっており、セールストークしてこない。むしろ仕入事情を教えてくれるので、やはり何度も顔を出し、仲良くなるのは大事だなあと思う。

●帰りは飛行機の中で(いや、思い起こせば行きの飛行機もそうだったが)40人くらいの若い大学卒業したてくらいのリクルートスーツを着た集団がいて、なかには先生と言われる人が二,三人いたようで、いわば団体客。彼らは中国語がわかるわけでもなく、かといって学生のようでもない。「出張」という言葉を発していたし、まったく不思議な団体で、何の組織なのかわからないからいよいよ不可解な気持ちになったが、まあ、彼らに言わせれば正体を明かす必要もなく、別に構わないのだけれど、いかんせんその団体の中に席を作られてしまったために落ち着いて眠れなかった。

●そんななか、iTunesUというiTunesで大学の講義を無料で公開しているものがあって、そのラインナップも数年前に比べずいぶん充実していたので、タイトルで面白そうな慶応・藤沢キャンパスの「社会構造分析2011」をあらかじめダウンロードしていたので、そのなかから初回を聴講する。
●授業で読もうとしているのが、ミシェル・フーコーだと聞き、お!と思いつつ、構造や解釈など、いわゆる構造主義的な分析手法について、わかりやすい言葉や事例を使って講義していて、かなり面白い。
●たとえば、言葉とは喧嘩できるが映像や写真とは喧嘩できない。映像や写真にも文法(構造、枠組み)がある。フレームの中にあるものとないのの。ないもののほうが重要。なにがなくされているか?何が語られて、何が語られていないか。これは戯曲でもそうだし、書く方の立場で言えば、敢えて何を書かなかったかというところから、何を書きたかったかが見えてくると言う逆説的な発想が単純に興味深い。
 わたしたちが日常の中でも、他人の表情や服装など、もちろんテレビから流されてくる情報も含めて、普段から見ているものから読まされている(解釈させられている)もの、無意識に読んでいるものは何かということだ。
●まさに、このタイトルの「百の目、千の事象」はフレーム=目とそのフレームから溢れる出来事や事物=事象のことだし、そうした視点を改めて深く理解したいと思わせてもらえた。こういうものにふと出会えることの喜びを感じつつ、長距離移動の家路につく。

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吉本隆明氏

●同時代に生きる日本人に思想家とか哲学者というのがいるというのを知ったのはこの人を通してだった。
●それからそれがどういうことなのか、この人の著作を読んだし、同時に六〇年代のことにも興味を持った。いわば時代の空気みたいなものは感じられたが、しかし、わからなかった。
 後期のわかりやすい文体や語り口調とはまったく異なるものだ。
●多くの今を生きる日本人が直接・間接的に大きな影響を受けたはずだ。

●そんななかわたしは毎月恒例の中国大連出張。
●こちらは雨。思ったよりも寒くない。頭痛を抱えてしまったので、安静にしておこう。

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年賀状からの無用の用

●年賀状が全然終わらない上に、仕事の方もあれこれと山積みで、どんどん保留されていくから、モヤモヤしてしょうがない。
●せめて仕事のことはさくさくと終わらせていきたいのだけれど、曖昧な意志決定がないまま、時だけが流れていく感じがどうにも嫌な感じなんだ。
 とはいえ、まるで何かをやり遂げたような達成感はあるのに、まるで何もやっていないということは往々にしてある。
●むしろ、達成感なんかなくて、なんだかよくわからないうちに変化しているということのほうが、真の実力がついている状態と言えるのかもしれないななどと考えるものの、実力を付ける過程の話と、単なる事務処理を混同してはならないのかもしれない。
 やればやったで終わる仕事はとにかくスピードがはやく、正確であれば、それに越したことはない。経済の観点からすれば。
●ただなあ、もっと無駄なものを許容できる仕事に価値を転換できないかなあとも考えてしまうのだ。

●たとえば、当時90年代後半からなぜあんなに「自分探し」や「やりたいこと」みたいな幻想が蔓延ったか不思議だが、それもきっと無意識に「対効率」という旗印があったからなのではないかとふと思い立つ。
 原発に象徴される「効率と経済」のためではない何か。いかに無駄であるか、非効率であるかの振る舞いは、いかなる言説よりもストレートに「アンチ効率」の旗印になっただろう。
●それを考えるには老荘思想が大いにヒントになるだろうが、老荘思想は人を堕落させると効率優先社会の人達は言ったのだ。今の中国そのものだ。老荘思想の排除、無駄の排除。
 あるいは、いかに合理的効率的な組織を作るかは、軍隊を例に引き合いに出されるが、会社のピラミッド型組織図はいまだにそこから抜け出せていない。何か違う。

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やろう

●ちょっと遅くまで会社に残って結局FaceTimeでいろいろお話。
●やるべき仕事は結局持ち帰りだけれど、まあ、持ち帰ってもなかなか進まないという。難しい問題を抱えている。そして出張も明日を乗り切ればというところだ。逆に言えば、明日しっかり終わらせないとなあ。とりあえずやるべきミッションは完了させる。
●あと、つぶやいたが、「『存在と時間』を読む」だが2006年からそのまま放置されていて、どこにもリンク貼られてないのに、どこからかリンクを張っていただいた。これは何とかせねばなるまい。
●あれは本当につらい作業だけれど、読み終えて書き終えるときの達成感はハンパない。そして、終えたあとは自信も出て、不思議とまた別の仕事に関してもやってやろうという気持ちになるから不思議だ。アレは続けなければなあ。うん。やろう。

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削ぎ落とすべきもの

●なぜかニュースから縁あって、哲学者・渡邊二郎氏の著作に行き着いた。まったく不勉強で存じ上げなかったのだけれど、レビューから推察するに、ユーモアなどは少なくかなり丁寧に実直に解説してくれるらしい。特にそのなかでも芸術の哲学 (ちくま学芸文庫)構造と解釈 (ちくま学芸文庫)を注文した。
●芸術/哲学、また、解釈学/構造主義などの観点から考えるにはかなり教科書的な存在のようだ。そして、今こそわたしは哲学に戻るべきだと思っている。
 まさに「構造と解釈」が乗り越えるべき問題があるように思う「左だ右だというつまらないぶつかり合い」を越えたところの、本来的な哲学的な問いからようやく人間としての普遍的なトンネルに繋がるはずだ。
●そして、その普遍的なトンネルを通って、さらに芸術の手つきで語れれば、また次の展開が見えるのではないかと思っている。
●情報の多すぎる世の中だからこそ、シンプルに削ぎ落としたものが見たいのだし、あるいは自分もそうしたものを作りたい。そんな思いはより一層強くなっている。

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ハーバード白熱教室第一回から第六回まで

●去年ブームになったあの「白熱教室」の再放送録画を昨日からまとめて見ている。本放送時もわずかには見たが、最初から見られなかったので年始の再放送を待っていた。
 ほぼ現代倫理学の話だった。主にベンサムやJ・S・ミルの功利主義の話(結果優先)は話としては非常にわかりやすいが、リバタリアニズムの話によって否定され、さらにジョン・ロックの自然法によって自由主義も批判されてきた。ここまではなんとかわかる。だが、第六回動機と結果 どちらが大切?」のカントの話になると急にややこしくなる。
 自律と他律、自由と道徳性の概念の繋がり、義務の動機。
 そもそもこの番組はソクラテス的対話によって、やや即興的に学生とマイケル・サンデル氏が(方向性はもちろん既に決められているとは言え)共に問いを立て、共に問いを考えることに意味がある。
●この際、中身は何でもいい。たとえば、倫理学的に言えば、極めて日本では現在的でわかりやすいと思われる「他者危害の原則」などについては語られていないし、環境倫理の問題にも触れられていない。「文学」についてでも、あるいは「構造主義」についてでもいいはずだ。
●いずれにしても刺激的だ。こんな哲学・倫理学のメジャーブームは95年の『ソフィーの世界』以来ではないか。
●そんなわけで、今まで読んでいなかった、忘れていた本を引っ張り出して読み返す。

●買い物にも出掛ける。またしばらく家を空けてしまうから。今回ばかりはやや不安もあるが、まあ、何とかなるだろう。何とかならないことはない。

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歯医者へ、四時間の大手術

●目が醒めたのはギリギリだった。一人準備して軽く握ってもらったおにぎりを腹の中に突っ込む。車で朝10時に予約していた歯医者へ。
●すぐに呼ばれたが、終わったのは14時くらい。4時間である。そもそもが昔の詰め物の中身を掃除して、また新しくかぶせようということだけだったのだが…。右下の歯、おそらく17年前くらい前にかぶせた銀歯の中がしっかり虫歯になっていたらしい。この虫歯を全部削り出すと結局神経にあたると言うことで、神経も削りだしてもらうことに。
 さて、ここで、新しいかぶせをセラミックにするか、銀歯にするかということで、何気なくセラミックを選んでしまった。二本分で14万円なり。うーん、奇しくも自分の誕生日に支払うことに…。それくらい払うんだったら、今ほしいものいっぱいあるんだけどなあ。あと、引越資金やらでこれから嫌でも入り用になるし。これ以上はもう歯にお金をかけないようにしよう。これが最後だ。あとは保険が効く範囲で充分だ。
 何だか、あとになればなるほど後悔する。約束書みたいなのを先に書かされちゃったし。悪い歯医者じゃないんだけどね。ただ、別のことは丁寧に説明してたけど、パターナリズム的なところでもちょっと納得いかない。
●そんなこんなで書いていたらだんだん嫌な気分になってきた。自分のこの判断力の弱さにちょっと嫌気がさす。
●それから新居の為のカーテンを見に行く。これも、工事業者にお願いした窓のサイズがやや規格外のために自分たちでカーテンレールを見繕わなければならなくなったのだ。そういう中途半端な仕事はしないでいただきたいんだけど。
●いずれにしても、専門家に仕事を頼む際のパターナリズム。どうなっているんだろう、最近。前よりあちこち悪くなっている気がしないでもない。うーん、せめてわたしが自分のプロとしてやっている仕事に関しては、職業倫理上、同じようなことはないようにしたい。

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食べること

●『南極料理人』を観る。
 久しぶりにいい映画だった。そして多くの人たちが感じるようにこの作品の魅力は料理にある。観ているだけで幸せになるような料理。『かもめ食堂』にはじまり、料理を扱う映画が最近は増えているが、あまり積極的に観てはいなかった。いいなあ。ほっこりした気分にさせてもらえる。

●実際の食事がこんな感じだけに。余計にいい。昨日も今日も二品しかないおかずのうち一品は同じ「酸菜」。左右を入れ替えて気分を変えているつもりだろうか。最初の二日はそれなりによかったのに。そんなこんなで料理は大事だと改めて思い知る。
 そうはいいつつ、ダイエットのためには、あまり美味いものを食べてばかりもいられないのだが…。
●さて、話はまったく変わるが、次世代iPhoneのプロトタイプが拾われ、画像が公開、解体されさらに公開とメディア倫理の問題で問われているが、それに対して画像を公開したGizmodo親会社のCEOインタビューの記事が面白かった。これは秀逸な台詞である。

 「われわれは、いいように使われたのかもしれないし、罪を犯したのかもしれません。でも両方を同時にはできません。」