●昨日書き切れなかった続きを書こう。鷲田清一さんのエッセイや哲学には徹底した深い眼差しがある。読んでその言葉に触れるたびに、どこかで感じたことがあるような気がしていた。
特に鷲田さんの「臨床哲学」という概念がずっと好きだった。それを今回読んだ『語りきれないこと』の最後でかなり踏みこんで解説してくれている。
臨床哲学は、<現場>というものをとりわけ大事にしています。予測できないことが絶えず起こる場所、コントロールが効かない空間が、現場というものです。
「理論研究、歴史研究をやってきた哲学者が現場に行ってどうするの?」と訊かれることがあります。しかし、臨床哲学は、まず哲学理論のようなものがあって、それを現場の具体的なケースに当てはめて考えるものではありません。現場では、たとえじぶんの理論を持っていても、それをいったん棚上げせざるを得ない。素人にならざるを得ない、そういう複雑な曲面に満ちています。理論を持っていたら、かえって邪魔になるようなところに、哲学をいっぺん置いてみる。そういう試みが臨床哲学がやろうとしてきたことです。(『語りきれないこと—危機と傷みの哲学』鷲田清一・著/角川oneテーマ21 より)
●この話だけでも充分にスリリングだ。状況としてはよく分かる。ただ、さらに「臨床哲学」を理解するために長くなるがここを引用したい。
「哲学を汲み取る」という、哲学者・鶴見俊輔さんの言葉があります。『アメリカ哲学』という本のなかで、哲学者の研究すべきテキストは哲学書ではない、労働運動をしている人のメモ、学校の先生のメモ、子どものいたずら書き、ナースのメモ…そうした断片的に書き記されたものから哲学を汲みとることが、哲学者の大切な仕事なんだと書いています。(『語りきれないこと—危機と傷みの哲学』鷲田清一・著/角川oneテーマ21 より)
●この感じ。太田省吾さんの演劇論や舞台の作り方から感じられる、あるいは、戯曲に書かれている人(俳優)への眼差しがまさにそれだった。
●演劇は「同じこと繰り返すもの」ではあるが、「量産可能な菓子パンを作るようなこと」には絶対にさせなかった演出家・太田省吾の姿勢はまだいくつかの演劇人に残されている。その俳優が生きてきた人生そのものが舞台に立ち現れるような作り方だ。
一回性のものであること、目の前で行われるものであることを徹底的に考えている。
コントロールが効かない、砂や水を舞台上で積極的に使い、「その」俳優が、代わりの効かない存在の仕方で、そこに生きることの圧倒的な存在感だ。だからそれはハプニングとは違う。
●人間の問題を書くために、わたしはまだ戯曲を書こうとしているのだということを、改めて再確認できた。当たり前ことばかりなのだけれど。
●臨床的な手つきは、普遍化させようというパッケージにこだわる必要などない、ということも伝えてくれている。一般的には気にした方がいいことを、わたしも気にしなければならない道理はなかった。何かを創り出していくというプロセスの中では。みんながみんなわかりやすいもの、受け入れられやすいモノを作る必要などない。なぜならそれは多くの人を集める手段だからだ。そうでなくてもよい。わたしからむしろ必要な人のところへ動けばいい。
●そして、改めて鷲田さんは言う。「外の病んで横たわっている人のところへ」、あるいは「問題発生の現場に出かけていく」という臨床のありようを。そして、その場で、現場だからこそ、内側からだからこそ言葉にならないものを言葉にして翻訳していく役割のことを。
●そんなふうになぞりながら、わたしができることとやれそうなことがようやく見えてきた。