●昨日、根っこがアスファルトを押し上げるのを見つけていた。しかもその木の周りに結構なゴミが落ちていて、呼吸ができない感じだった。そういうモノを全部押しのけて生きようとする力の強さがそこにあった。
●ふとTwitter上で出会った「ヴァナキュラー」という概念。
標準化と職人技術の問題は実はずっと前から考えていて、うまいこと言葉にできないままだった。しばらくそれを放置しながら、同時に仕事においては特に「なぜ標準化をしなければならないか」、一方で近代に抗おうとする単純な反動のような抵抗は感じていて、自分の中で整理ができないままだった。そのタイミングで出会ったこの言葉だ。
●建築からだけれど、ここを参照するとよくわかる。
「ヴァナキュラーから建築を考える(バーナード・ルドフスキー『驚異の工匠たち』書評)」
●大事なことは、「ヴァナキュラー≠伝統性・地域性」であるということ。とはいえ、明らかに近代へのカウンター・プロポーザルであり、以下のような対立構造はある(上記のリンク先から一部を抜粋)。
永続性 ←→ スクラップアンドビルド
魔術性、コスモロジー ←→ 脱魔術化、科学主義
非均質性 ←→ 均質空間
非視覚性 ←→ 視覚的、比例
●わたしが注目したのは、「魔術性」と「非均質性」だ。それは以前も書いた「代わりが効かない」ことにも通じる。
たとえば、クォリティコントロール(QC)の前提は、まさにブラックボックスをなくし、標準化し、代替可能にすることだ。事実上、日本国内にあった仕事そのものを近隣諸国が代替できるようにすることだった。そうなれば、工場の空洞化は必然だ。自ら日本が「国際化・グローバル化」というその呪縛に強く巻き取られたことによるものだろう。
だから、日本で仕事を残すにはその逆という発想も可能だ。
●しかしながらリンク参照先の最後の一文からもわかるように、このヴァナキュラーという概念は、単なる近代への反動ではない。そこを引用しよう。
ただ近代建築を否定するだけでは、ヴァナキュラー建築は批判と懐古主義にとどまり、現代的な社会性・創造性を獲得することはできない。「積木(=近代技術)」を「横領」し、工業化・商品化・環境問題・グローバリズムといった現代的要件を前提とすることが、「現代のヴァナキュラー」を考えるスタート地点になるだろう。
●現代においては、近代を反省しつつも、近代とも共に生きる多文化共生のなかでは、積木(=近代技術)的に仕事をしなきゃならない場面もある(むしろ多い)。そのなかでも「人」が「もの」にならないように。最終的には「主体性の回復」をどうしていくかが重要だ。
●それは仕事においても、演劇においても、わたしにとっては重要なテーマであり、このヴァナキュラーという概念を「近代の語り直し」の一つの方法として必ず参照しておこうと思ったゆえんだ。
●それにしても、そうやってあらゆる問題が、たったひとつの言葉でつながることそのものに知の喜びを感じたのだ。まだまだ知らないことは多いし、絶望するくらいになにもわからないけれど、それでも知りたいという欲求をもてることは本当に幸せなことでもある。可能性と希望がそこにあるから知りたいと思えるのだし、喜びにつながるのだろう。
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