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欲望のアレンジメントを臨床的に見つめること

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●昨日の続きを読んでいく。
○人々はなぜ自ら進んで「搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人の為のみならず、自分自身のためにもこれらのものを欲する」のか。
 それを解き明かすのが、キーワードは「欲望のアレンジメント」だ。これが何かを考えたい。そして、ドゥルーズはどこに向かおうとしているのかを確認する。
○まず『千のプラトー』で採用されたという「アレンジメント」という概念とは何か。「アレンジメントとは、複数の要素が組み合わさって、一定のまとまりを持ったエージェントとして作動するさまを指示するために使われている。」
 「状態」を示すための言葉だし、しかもそれは複雑さを保った状態だ。では、「欲望のアレンジメント」とは何か。「欲望は主体に内在する。そして、その内在する力が諸々の要素と組み合わさって、欲望のアレンジメントが構成される」というところからもわかるように、いろんな要素と組み合わさった複雑さをそのままに「欲望が構成された状態」だ。

●「やりたいこと」 の核は主体に内在するが、それだけではない。周囲からの諸々の影響を受けてその「やりたいこと」は形づくられる。
●たとえば、「つながりたい」という欲望、「社会的正義を貫いてわかりやすい悪に制裁を加えたい」という欲望など、あるいはわかりやすいところでは物欲。その物欲を刺激する要素としての広告とか、考える方向は様々に広がる。あるいは資本主義という構造そのものも欲望を刺激する複雑で重要な要素だろう。
 それを中心に回る企業もそうだ。経営をする以上、どんなに素晴らしい理念を掲げようと「金儲け」はしなければならない。利益を出してこその企業であることに変わりはない。資本主義社会のなかでの活動では、そこは最大の起点になる。

欲望のアレンジメントの中で構成された位置部品としてのミクロ装置を通じて、「行為に対する行為」として、あるいはダイヤグラムとして作動する。したがって、確かに権力は社会に浸透しており、それを動かしているのだが、分析を権力までで留めてはならない。そうした権力がなぜ発生するのかを問わねばならない。なぜなら、権力は欲望の一つの変状に他ならないからだ。

●たとえば、「社畜」とか「ブラック企業」とかという名付けはそれぞれにこの資本主義社会の中である種の「権力」の発生を予防的に遠ざけようとする言葉かもしれない。
 ただ、どんなに遠ざけようとしても、必ず「権力」は発生する。

 特定の権力様式が特定の欲望のアレンジメントを前提にしているということは、その権力が何らかの理由で人々に欲望されていることを意味する。君主型権力が作動するためには、君主型権力による支配が欲望されていなければならない。規律訓練型権力が作動するためには、規律訓練の支配が欲望されていなければならない。コントロール社会が到来するためには、規律訓練ではない、チェック・ポイント型の管理方式による支配が欲望されていなければならない。

 つまり、欲望のあるところに「権力」が発生する。それは上からとか下からとか、高い所とか低い所とか関係なく発生する。
●だから、「搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人の為のみならず、自分自身のためにもこれらのものを欲する」のだ。
 「本当はやりたいこと」と「実際にさせられていること」という区別が、どうしても権力の概念の中に入り込んでしまうのだけれど、そうではなくて、欲望のほうから考えていくとわかることがあるだろう。

●最後のまとめで、ドゥルーズ=ガタリの方向性が示される。

あらゆる場面に応用可能な抽象的モデルを提唱しない。ドゥルーズ=ガタリは、まさに精神分析家が患者一般ではなく個々の患者に向かうように、一つ一つの具体的な権力装置、それを作動させるダイヤグラム、そして何よりもまず、その前提にある欲望のアレンジメントを分析することを提唱する。そこから自由に向けての問いが開かれる。その問いは、常に具体的な個々の状況において問われる。

●一つ一つの具体的なダイヤグラム、欲望のアレンジメントを分析すること、まさに臨床的に。この個別であること、臨床的であることを、徹底的にわたしも考えることだろうと思う。

●そのもっとも個的な最初の対象は「わたし」だ。「やりたいこと」と「実際にさせられていること」のギャップの中で苦しんでいたころの自分にはおそらくこのメッセージは届かない。しかし、今ならまた少しだけわかる。わたし自身の欲望のアレンジメントに忠実に耳を澄まそう。

●というわけで、『ドゥルーズの哲学原理』は読了した。

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