●わたしは元来、影響を受けやすい。扇情にのりやすくワクワクしたら眠れなくなるタイプだし、感覚で判断して感覚でモノを言うタイプだ。しかも調子に乗っているときは声もデカい。そんなわたしは、ロゴスの柱をしっかり摑んでおかないと、あとで大変後悔することになるのを経験的に知っているので、気を付けているわけだけれど、一方でロゴスの柱にしがみつつ、しかも「自我とは他者によって成り立つものだ」とか基本が受け身の待つ思想だから、いつまで経ってもその場から動けないのも事実。
だからこそ、ドゥルーズはガタリと組んだのだろうと、ロゴスのところとは関係なく、まあ、ちょっと思うことがある。ある種の偶然を意図的に作り出すための他者の思考と言葉を拝借する感覚。他人の操縦する船で行き先を一緒に考えながら進むみたいな。
●わたしが境界にいるマージナルマンに興味を持つのも結局は「この場にいながら…わたしのなかの新しい感覚」をと期待するからということかもしれない。など、いろいろ考えていたことが腑に落ちる。
●あと、昼間、『つながりすぎ社会を生きる 浅田彰さん×千葉雅也さん – 朝日新聞デジタル』を受けて、こう書いた。
●マイノリティとしての「闇」の歩みみたいなものは方法として確かにもっとあってしかるべきだと思う。一方、わたしは「病み」の歩みを志向している。「闇」も「病み」も極めて個的なものに違いない。そして、いずれも「部分的に隠れる」ための手段にもなる。しかし、いずれも「小さな社会」を持ちうる、と。
●しかし、そもそもここで設定されている「不良」っていうのは、むしろ先行する「優等生システム」(それはバカッター問題や、過剰な道徳チェック)というマジョリティの対項としての「不良」というマイノリティで、要はそれってマージナルマンだし、中心から逃走した人たちのことだろう。
だとしたら、わたしはやはり「やみを抱えて」中心で生きられない人のことを思うのだ。優等生でも、蚊帳の外でしか生きられない人がいる。優等生がシステムを支配するかどうかもここでは正直どうでもいい。彼らはそんな次元とはまったく別のところで、目もくれず存在しているのだし、あるいは光の中から見れば、不在というかたちでしか存在を証明できない。
●よみかえしたら、ここでも「スキゾ」より「アスペルガー症候群」という積極的「発達障害」という「病み」が書かれていた。つまり、「やみ」は「病み」であれ「闇」であれ、「部分的に隠れる」ための「くらやみ」が必要だと勝手に解釈しよう。一度切断してからまた接続することそのことに対しての共感は強く持てたのだ。
●そういう意味でも、あらためて内省的な反省に戻るならば、わたしはどちらかというと演劇的にも強く深い繋がりを求めすぎる傾向があり、一方で劇団化はしないというあくまでも作品ごとにキャストが集まる形をとってきたわけだけれど、それはある種のロマン主義の裏返しだったのかもしれない。
●だからこそ、15分くらいの短い上演と45分の休憩とトークセッションみたいなものの繰り返しが小さな空間でできるとよい。珈琲が飲めるような場所で。そういうものも積極的に書いていこうとふと思った。
のだけれど、今はまずは書きかけのものを書きあげる。こちらでもふと、なんかの拍子でまた新しいシーンのイメージが湧いて出てきた。これだから、受動的主体性は困る。そのときによって書けるものって変わるから。困るといいながら変える気はないわけだけれど。ドゥルーズをキッカケに考えることは多い。出来事としてのシーンを書こう。