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アートからソーシャルアクションへ

●『語りきれないこと—危機と傷みの哲学』(鷲田清一・著/角川oneテーマ21)を読了した。長くジワジワと読んでいた。
三つの章からなる「第1章 「語りなおす」ということ」「第2章 命の世話」「第3章 言葉の世話」。
 だいぶ間が開いて、第三章を読む。

アートは、人びとと同じ世界にまみれながら、その世界の諸要素が別様に配置される可能性を直感し、それをめがけて、世界を破る、こじ開ける、狂わせることを企む。シュルレアリストのかつての合い言葉を借りれば、「生活を変える」ことをもくろむ。だから、抵抗がないということは、世界をまだ破れていないということだと感じる。「危なくない」アートは飾り物にすぎないと感じる。

20131026 022045

●昨今の地方でのアートフェスタでの、現代美術の受け入れられ具合に辟易する声があったというのをどこかで見たが、なるほどそういう声だったか。
 ここ数日ずっと考えているテーマでもある。アートとデザイン。アートからソーシャルデザインへ。そのために手段としてポップであり開かれていること。ただ、「尖りながら」というのがわたしの中では必ず必要で、それなければ「危なくない」飾り物に成り下がる。
 つまりこの問題は、わたしがこの地方でどのように演劇と関わっていくか考えるキッカケをくれる。
●自分の気心の知れたコミュニケーション圏に閉じこもることなく、他のコミュニケーション圏とどう話をするか。
 そのために、何の利害関係もない市民があつまって、一つのテーマについてただ語り合い、そこから一つの劇とも言えない劇を作り上げていくことについて考えていた。短いスケッチを考えながら、それを構成していく手法でもよい。ソーシャルアクションとしての活動が何かできるかもしれない。

●それ以外にも考えさせられることはたくさんあった。
 価値判断を専門家まかせでなくわたしたちが市民となって自分たちですること。
 パブリック・オピニオン(公論・世論)とポピュラー・センチメント(民衆感情)、日本人はあくまでも動いているのはオピニオンではなく、センチメントで動いていること。だからこそ、新たにオピニオンをまとめるための技術を高める必要がある。
 日本で「責任」を声高に(つまり、感情的に)叫ぶ声に激しい苛立ちを持ちながら、わたしたちが今取り組むべきは、もっと具体的に何をどうするかを新しい意見を合意させて、形成していくこと。「語り」のしくみそのものを、作り直すこと。
●そのためにも、身体感度を高めること。おかしなことや不快さに正直であること。そして、相手を倒すための議論ではなく、自分も変わるために、差異を認めるために対話をすることだ。

●もっとつっこんだ本質的なところまで書けていないが、続きは明日にしよう。深夜の地震ですっかり目が醒めてしまったが、眠らなければ。

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臨床哲学

●昨日の話とも繋がってくるが、最近は『臨床とことば』を読み直している。
●臨床心理学者の河合隼雄氏と臨床哲学を提唱する鷲田清一氏の対談。
 臨床哲学は個別ということにこだわりつづけ、個別の足し算ではなく、個別という一例を深めることで普遍的な場に出る。臨床心理学でいうところの事例研究。理論のことは勉強しても、ディスカッションなどの席では一切使わない。
 こういう話が今のわたしには必要で、頷くことばかりだ。
●日本の倫理基準についても、最終的には美的判断ではないかということ。
 「嘘をついてはいけない」という倫理・道徳ではなく、その場面で「嘘をつくこと」が美しいか、美しくないか。
●そして、それらはきっと作品作りにも通じることであり、彫刻家のジャコメッティは「一人の人を描き切って、描き切ったら、なぜかその顔は、誰の顔でもあるように見える」という。
 この言葉から、敢えて抽象的な言葉で普遍性を語ろうとせずとも、別のルートがあることを改めて再認識できた。
 ここからおそらく次の作品も見えてくるのではないかと思っている。