そして第二節へ入っていく。で、いきなり余談だが、ここに入るまでに実は4ヶ月以上もの時間を費やしてしまった。なぜなら、この第二節は意外と長いのだった。長くてまとめるのがつらくなったというのが正直なところだ。そして、なにより非常にややこしい。この文章を一度で理解できる人間などいないのではないか。それくらいややこしい。
しかしここでは、おそらくハイデガーの重要なキーワードともなりうる「現存在」が出現してくるし、ややこしいがゆえに整理を怠るとおそらく先に行けば行くほど辛くなるだろうことは容易に想像できるわけで、ここでは丁寧に進めていく。
まず、ハイデガーは「問いとは何か?」という「問い」を設定する。
問いとは一つの探求であり、探求するものは探求されるものによって、その方向を定められている。という。また、後年には「探求されるものによって導かれている」と言い換えている。
どういうことか?
最初に何かを問いを立てて、そこから余計なものをそぎ落としていき、純粋な概念として抽出しようと試みることだとわたしは解釈した。
それとは別に「単なる問い」つまり、「これって何ですか?」とわからないから問うというようなこともあるが、その疑問に答えようとすれば、自ずと「探求」していかなければならないのであり、そしてその探求には、必ず何らかの(漠然としたものであっても)手がかりがある。その手がかりこそが、「探求されるものによって導かれるもの」だろう。
そして、問題の「存在への問い」、つまり「存在とは何であるか?」という問いに入っていく。
ここがややこしくしているところなのだが、「問いとは何か?という問い」が「問いの中に問いがある」というメタな問いであるのと同様に、「存在とは何であるか?」もまた、この存在への問いの中にすでに「存在」が前提とされているメタな問いである。そして、あるとは何かわからないまま、いや、漠然と了解したまま、使用している。だとすれば、何が「漠然と」させているのか、曖昧にしているのか、ハイデガーの言葉を使えば何が存在という概念を「暗くしているのか」、そこを問うことが重要になってくるのだろう。
こうした存在への(漠然とした)了解を「平均的な漠然とした存在了解」とハイデガーは呼んでいる。あとでも出てくるので重要だ。※ここでは、わざわざ戻って付け足した。
そして、次に問うている人(存在者)の問題がある。長くなるが一緒に読んだ気分を味わってもらうためにも、このややこしい文章を直接引用しよう。
存在が問われているものであって、しかも存在とは存在者の存在のことであるかぎり、存在問題において問いかけられているものは存在者自身であるということになる。この存在者はいわばおのれの存在を目指して試問されるのである。だが、存在者がおのれの存在の諸性格を誤りなく呈示しうるはずであるなら、この存在者は、おのれの側であらかじめ、おのれ自身に即して存在しているとおりに近づきうるものになっていなければならない。存在問題は、そこで問いかけられているものに関して、存在者へと近づく通路の正しい様式を獲得し、前もって確保しておくことを要求するのである。
この修飾語が重なる「存在者へと近づく通路の正しい様式を」と入力したところで、ATOKにも<修飾語の連続>を指摘されているとおり、それがまた話をややこしくしている。だが、ここで語られる「存在の真理を探求する存在者」を「現存在」とハイデガーが呼ぶように重要なポイントである。辛抱しよう。後年にはこの「現存在は何か=存在の真理を問う存在者とは何か」という問題と、「存在の真理を問う」問題の二つをはっきりと分けて考える必要があると言っており、だったら最初からそうやって書いてくれればいいようなものをと思うものの、そこもじっと辛抱だ。
やや急いた。現存在とは何か、術語的(テクニカルに、あるいは学術的に)にどうやって定義されたのか確認しておこう。
存在問題を仕上げるとは、或る存在者をー問いを発する存在者をーその存在において見通しのきくものにすることである。存在問題を問うことは、或る存在者自身の存在様態として、この問うことにおいて問いたずねられている当のもののほうからーすなわち存在によって、本質上規定されているのである。われわれ自身こそそのつどこの存在者であり、またこの存在者は問うことの存在可能性をとりわけもっているのだが、われわれはこうした存在者を術語的に、現存在と表現する。
話を前に進めよう。
それでも、ハイデガーはまだ心配している。こうして「存在を問う存在者」つまり、「現存在」の存在とは何かという循環に陥ってしまうのではないか、と。
だが、ここでハイデガーはくじけない。
「存在とは何か?」という問いそのものが存立することは誰も否定しないだろう。
つまり、「存在」はすべてのこれまでの存在論において「前提されて」はいるが、しかしそれは、意のままになる概念としてではない。という結論に達したようだ。ここでの存在者の存在もまた、先の「存在とは何であるか?」の問いと同じく、あの平均的で曖昧な存在了解と同様であり、いやそもそも、現存在自身の本質機構に属するものであるから、そこを問い直すことと、これを「一つの証明されざる根本命題を発端に置くこととは、なんら関係がない。としている。
ここでわたしたちが戸惑っていたのは、問うこと(存在とは何か)がその問われること(存在)によって、本質上絡みつかれていたからだ。と、ハイデガーは言う。そして、それはすでに「現存在」が「存在」より優位にあることを示唆しているのではないかと、言う。
ここでようやっと、「優位」という言葉が出てくる。これについてはまた来週、第三節で検証していくことになるだろう。いや、長かった。
04/12/12
<参考文献>
『ハイデガー 存在と時間1』中公クラシックス(訳・原佑/渡邊二郎)