プラトンの『ソフィステース』の引用から始まるそれは、「存在」という問題が古くから問われ続けたことを意味しながら、今もなお不明確で困惑を呼び起こす問いであることを再確認させるためのものか。
わたしが、とここでわたしが出現することに違和感を覚える方もいるかもしれないが、おそらくこれからもしばしば登場する。なぜなら、ここに書かれるものは、当然のことながら『存在と時間』ではなく、『存在と時間』を読みながら考えるわたし自身の記録だからだ。誤読や解釈の間違いは当然のものとして進めさせていただく。
ハイデガーがこの『存在と時間』を書くことで意図するところは、この前文にある。もちろん、わたしはまだこの書を最後まで読み切っていないから後半に入るに連れそれは作者の意図と異なるものになるかもしれないが、「目標」と本人が書いているのだから仕方ない。まずはそれを信じよう、では、その目標内容を確認したい。
存在の意味への問いをあらためて設定すること。
この問いの意味を明らかにするなんらかの了解を、まずもってめざめさせること。
「存在」の意味への問いを具体的に仕上げること。
あらゆる存在了解一般を可能にする地平として時間を学的に解釈すること。
これが『存在と時間』が書かれた意図である。
しかし、最後の段落には戸惑ってしまう。私の理解力が悪いのか、原文が悪いのか、翻訳か。その問題はとりあえず棚上げさせていただいて、わからない場合はそこで立ち止まることにする。それがここでの作法とする。
<略>……以下の論述のさしあたっての目標なのである。
そうした目標をねらうこと、そうしたもくろみのうちに含まれていて、このもくろみによって要求されている諸研究、およびこの目標へいたる方法、これらのことは、序論の役目を果たす解明を必要としている。
目次を見たところ「序論」というのは、この「前文」のことではなく、この後に続くまさに「序論」のことだと思うが、ここでいくつかのことを解明しようとしているらしい。
言い換えれば、こういうことだろうか。
つまり、序論において「なぜ存在の意味をあらためて問い直すのか、そしてどうやって問い直すのか」を明確にする。だとしたら、この前文はなんのためのものだ。わたしは早速裏切られた気分である。しかし、わたしがこの『存在と時間』を読み切るために、作者を信じるしかない。
それにしても、わかりにくくしているのは、「そうしたもくろみのうちに含まれていて、このもくろみによって要求されている諸研究」という言葉の運びであり、何度読んでもわからない場合は、先へ進むことにする。それがここでの作法とする。問題は何がわからないかだ。それが今はわかった。のだと思う。
04/11/28
<参考文献>
『ハイデガー 存在と時間1』中公クラシックス(訳・原佑/渡邊二郎)