連載 存在は表現になるか〜太田省吾氏を巡って〜
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(5) 虚構の<構え>、あるいは身体の工作
  では、実際の太田省吾氏の舞台作品はどのように上演されていたのだろうか。まず特徴的なのは「沈黙」だ。
  全編セリフが発せられない『水の駅』を始めとする「駅シリーズ」では、役者に大雑把な指示を資料として示し、さらに詩や小説、絵などを引用して、登場人物の意識や行動を間接的に限定したという。
  「一つ一つのシーンを現実化するためにどういう台本を書けばよいのかは見当がつかなかった。台本にしようと筆を執ると、沈黙が形式化しそうに思えた。沈黙という形式によって言葉を演じるものになる。かといって、具体化のためのなんの枠なしではどうにもならない。」(太田省吾・著 『劇の希望』「台本について」より/筑摩書房)
  と、いうわけだ。こうなってくるといよいよ、文学(戯曲)というものから離れ、「演劇」を前提にしているという力強ささえ感じられる。役者は間接的に限定されたものを用いて、役を演ずるということでなく、自らの身体で表現に立ち向かってっていかねばならなくなるのだ。
  また『小町風伝』では、現代劇が「能舞台」にのるという極めて実験的なことも行なわれた。この公演について、太田氏は興味深いことを語っている。
  「能舞台を歩いて、台詞をしゃべってみたら、能舞台から蹴られちゃったわけですよね、台詞がね。(中略)その吐いてる言葉っていうのは、10年ぐらいの文化でしか、通じない言葉じゃねえかとかね。」
  (『水の希望〜ドキュメント転形劇場』「劇的ルネッサンス」より)
  つまり、太田氏の用いたい言葉は千年・万年の単位で考えられた言葉なのである。しかし、それは「沈黙の言葉」であり、概念化されない言葉、かたちのない言葉だったわけだ。
  さて、「ゆっくりとしたテンポ」も太田省吾という人物を語る上で、欠かせない要素の一つある。これについて、太田氏はこう書いている。
  私の劇のテンポは遅い。かなり遅い。その遅さは、言ってみればどのような動作も、反復を含んだものとするためであり、そうしなければ見ることのできない人間の美を見ようとしていることなのかもしれない。
  (太田省吾・著/『舞台の水』「<反復>と美」より/五柳書院)
  これは、時間を見るということと密接に繋がってくる問題だ。「反復」や「ゆっくりとしたテンポ」は使用し、時間を、そして人間を見ようというわけだ。あるいは、その5メートルを2分かけて歩くといわれる歩行は、能の「ハコビ」を彷彿とさせるものがある。これは、「虚構の<構え>」あるいは、「工作した身体」ということで、『裸形の劇場』でも説明されている。
  簡略して言えば、「身体を意識し(工作を加え)、虚構<フィクション>を構えるため」ということになるだろうか。能の「ハコビ」の考え方も、舞台の虚構性を保つために必要な方法のひとつだろう。身体はそれこそ「食って、寝て、排泄もする」現実の身体であり、それは舞台に立つ役者も同様のことだ。しかし、それでは<虚構>というものが成り立ちにくくなる。
  <表現>はフィクションを構える。フィクションとは、受動が力である世界の構築である。フィクションは、だから、能動の力を拒みうるのであり、現実世界からの距たりをもちうるのではないだろうか。フィクションは、能動の力のためには不要な、あるいは必要性の薄い方策である。(『劇の希望』「受動という力/フィクションの力」より)


[主要参考文献]




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