『存在と時間』を読むためのノート Vol.019
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第一篇・第三章・A 環境世界性と世界性一般との分析
第十六節  世界内部的存在者に即しておのれを告げるところの、環境世界の世界適合性

 おさらいになるが、今回も「環境世界性と世界性一般との分析」のなかの一節である。
 さらに前回の最後の問い、「世界現象の存在論的了解にとって、いささかでもうるところがあったのであろうか」が引き続き問われることになるだろう。ということで、前回同様「配視」や「道具的存在性」がキーワードとして繰り返されることになるだろう。
 で、今回も一通り流し読みをして、再度繰り返し読み込むという作業での読みである。
 世界内存在の日常性には配慮的な気遣いの諸様態が属しているのであって、それらの諸様態は、世界内部的なものの世界適合性がそのさい現れ出てくるように、配慮的に気遣われた存在者を出会わせるのである。
 また、非常に抽象的な言い方だ。
 これについては、前回の「道具的存在性」を例にして考えるとわかりやすい。
 たとえば、ここにテレビがあるのに、アンテナプラグの形状が異なる。つまり、使えない。道具はあるのにその道具が使用できない。使用したいのに使用できない状態。(1,利用不可能なもの
 こうした状態を、ハイデガーの言葉に言いかえるならば、テレビ(道具的存在)があるが、使用しようとする(交渉)の際に、アンテナプラグの形状が異なる(利用不可能だと暴露された)ことで道具が目立ってくるということだ。こうした状態を「非道具的存在性」と言っている。
 この使用不可能なものは道具でありながら事物としておのれを示すのであって、そうした道具事物は、これこれしかじかの外見を呈しており、おのれの道具的存在性をもちながら、同時にまた、そのような外見を呈するものとして、たえず事物的に存在するものに成り下がってしまったのである。そこでは、道具に即して純然たる事物的存在性がおのれを告げてきており、それでいながら、この純然たる事物的存在性は、配慮的に気遣われるものの道具的存在性、言いかえれば、修理中のものの道具的存在性のうちへとやがてふたたび引き下がってしまう。
 ハイデガーはさらに別の事例を出している。
 先ほどの例に則して言うならば、アンテナプラグの形状が異なっていたと言うことは、正しい(ハイデガーの言葉で言うところの「手ごろ」な)アンテナプラグの形状が、「手もとに存在して」いないことを見いださせる。
 このとき、テレビは使用できない、事物的存在者として「押しつけがましさ」という様態をとるのだとハイデガーは言う。(2,端的に欠けているもの
 欠けているものが切実に必要となればなるほど、つまり、それが手もとにないというかたちで本来的に出会われれば出会われるほど、当面の道具的存在者はますます押しつけがましくなり、しかも、その道具的存在者が道具的存在性という性格を喪失するように見えるほどである。
 なるほど、今回は今までで一番わかりやすいのではないか。個人的にも今、ADSL用のモデムはあるのに、まだNTTの工事が終わっていないとかいうことで、非常にタイムリーに道具的存在者が事物的存在者に成り下がっている状態を肌で感じているところだ。
 さらにもう一つの事例として、スカパー!のアンテナもチューナーもあるのに、南南西の方向に高いマンションが建っていて、受信できない、といったようなものがある。(3,邪魔になっているもの
 こうした非道具的存在者は、妨げになるのであって、差しあたってあらかじめ配慮的に気遣われるべきものが手向かってくるのを看取できるようにする。こうした手向かいとともに道具的存在者の事物的存在性が新しい在り方で告知するのは、おのれが、依然として片づいてはいないので片づけられることを求めている当のものの存在だということである。
 まあ、向かいのマンションについては片づけられはしないが、まあ、手向かっているものであることに間違いはないだろう。
 目立つこと、押しつけがましさ、および手向かいという諸構造は、道具的存在者に即して事物的存在性という性格を現し出す機能をもっている。
 こうした道具は「がらくた」になりかねないが、それでもおのれ(道具)が道具的に存在しているものとして、おのれを示すのであるそうだ。
 と、ここまで非常にわかりやすかったわけだが、ここでハイデガーはまた迷う。
 「そうした出会われ方をこのように指示してみたところで、それが、世界現象を解明するのに何の役に立つのであろうか。」
 まあ、こういった疑問を投げ出したときは、大抵、反対語が続くのがハイデガーのやり方だ。
 「しかし、いまやわれわれは、この現象を眼差しのうちへとおさめる可能性のうちへとは入り込んでいる。」  ほら。
 道具としての道具的存在者の構造は、指示によって規定されている。最も身近な「諸事物」がもっているそれ特有の自明な「それ自体」は、その諸事物を使用しながらそのさい表立っては注意を払っていない配慮的な気遣いのうちで出会われるのであり、そうした配慮的な気遣いが使用不可能なものに突き当たることができるのである。或る道具が利用不可能だということーこのことのうちにひそんでいるのは、その道具の手段性を或る一定の用途性へと向ける構成的指示が妨げられているということ、このことである。
 この「1、利用不可能なもの」の指示との連関についてであるが、さきほどのテレビの例を考えてみればよく分かる。テレビは映像を映す(指示)ためにある。その指示が、アンテナプラグの形状が異なるという指示の妨げによって、指示が表立ってくるというわけだ。
 ただ、これは配視によって存在的に表立ってくるのだとハイデガーはいう。こうしてテレビ以外のリビングを囲む道具連関の全体が浮かび上がってくる。こうして、全体とともに世界がおのれを告げる。ようだ。何となくはわかる。
 また、わたしが、テレビのアンテナプラグとは普通はこういうものだろうと思っていたものが、かなり古いタイプで驚いたような状態を、「配視において暴露された指示の諸連関に破れが生じた」とハイデガーは称する。
 廃止は空虚のうちへと突き入って、いまやはじめて、欠けているものが、何にとって、また何とともに道具的に存在していたのか、見てとるわけである。ここでもまた環境世界がおのれを告げているのである。
 このようにして閃いてきているものは、それ自身、他の諸道具的存在者のうちの一つではなく、いわんや道具的に存在する道具をたとえば基礎づけているようななんらかの事物的存在者などではまったくない。そのものは、すべての確認や考察に先立って「現」において存在しているのである。そのものは、配視がつねに存在者へと向かっているかぎり、配視にとってすら近づきえないものではあるが、しかし配視にとってそのつどすでに開示されている。
 ここで「開示する」とか「開示性」という術語について、ハイデガーさんから説明が入る。今後、これらの言葉は、「開明性」を意味するようだ。
 そんなことよりも、ここまできて「世界が道具的存在者から成り立っているのではない」とハイデガーはいうのだ。そして一気にややこしくなる。
 配慮的な気遣いの諸様態は以上のように学的に解釈されたのだが、世界がそうした諸様態のうちで閃きでるということと、道具的存在者の非世界化とが手に手を取り合っており、その結果、たんなる事物的存在が道具的存在者に即して現われ出る(ことが世界が道具的存在者から成り立っているのではない理由である)。「環境世界」を日常的に配慮的に気遣うことのうちで、道具的に存在している道具が「自体存在」というかたちで出会われることができるようになるためには、配視がそのなかに「没入している」諸指示や諸指示全体性は、この配視にとってと同じく、ましてや非配視的な「主題的」な捕捉にとっては、あくまで非主題的になっていなければならない。世界がおのれを告げないということは、道具的存在者がおのれの目立なさのうちから踏み出ないことを可能にする条件なのである。また、こうしたことのうちに、道具的存在者の自体存在の現象的構造が構成されているのである。
 重要なポイントのように感じるのだが、まったくわからなくなる。各自、具体的な例をはめ込んで考えて頂きたい。
 道具的存在者は、「目立たないこと」「押しつけがましくないこと」「手向かわないこと」などの欠性(「何々しないありさま」)によって、「道具的存在者がそれ自体で控え目」にしているという性格を示している。ということはわかったが、それは以前も確か似たようなことを書いたのではないか。第十二章の「内存在」の性格も似たように欠性によってしか表現できないものだった。
 さて、「自体存在」という言葉が急に頻繁に出現してきたのだが、これについては「それ自体」という言葉の使い方とどうやら関係があるらしい。そして、「道具的存在者がそれ自体で控え目」にしているという性格が、「自体存在」というものを考えるときに念頭においていることであるらしい。
 しかし、これ以降、ハイデガーは「しかし〜、けれども〜、だが〜、しかし〜」と続けており、非常にわかりにくい。
 ひとは、たいてい存在的な態度をとって力をこめて存在のこうしたそれ自体を引き合いに出すのだが、それは現象的には正しいことなので(は)ある。(ここの「は」はないほうがわかりやすいのではないか?)しかし、このように存在的に引き合いに出してみたところで、そのように引合いに出すことでもって与えられていると思い誤られている存在論的陳述の要求は、必ずしも満たされはしない。これまでの分析がすでに判然とさせたように、世界内部的存在者の自体存在は、世界現象を根拠としてのみ存在論に捕捉されうるものになるのである。
 とさ。
 とさってこともないな。まあ、あるよね、「それ自体、無駄じゃん」みたいな使い方。これは現象的には正しいらしい。だが、存在論的にはどうも要求を満たした使い方ではないらしい。
 最後の「世界内部的存在者の自体存在は、世界現象を根拠としてのみ存在論に捕捉されうるものになるのである」というところから、話が展開するのは、つまり、世界が先か、道具が先かという話だが、世界が先だよということらしい。
 世界内存在とは、これまでの学的解釈にしたがえば、道具全体の道具的存在性にとって構成的な諸指示のうちに、非主題的に配視的に没入しているということ、このことにほかならない。
 この主題的とか、非主題的とかがわかりにくいが、おそらく道具とは先ほどからくり返されているように「目立たないこと」ことが重要であり、だからこそ日常的な環境世界を構成していると思ってしまっているのだが、「それ自体」主題となってしまってはいけないものなのであろう。
 これから世界性の現象および問題の仕上げが目指されるのだが、後半のややこしい部分の複雑な諸構造を具体的に分析することがまず必要だ。
 そして、その複雑な諸構造は、ハイデガー特有の答えを(差しあたって)もたない設問という形で設定されているのだが、この設定された設問そのものの構造の分析が必要だとハイデガーが言っているのであって、それではその設問をここに書き記すまでもなかろう。まずはその分析を待ってから、その設問を考えて頂くことにしたい。

05/04/10

 


<参考文献>
『ハイデガー 存在と時間1』中公クラシックス(訳・原佑/渡邊二郎)