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十牛図

●先日リブロで購入した特注の額縁である。特注って別に特別な素材のものとかそういうのではなく、ただ、この十牛図に合わせた額が欲しかったので、そのサイズに合わせて作ってもらっただけなのだが、当然のことながらぴったりだった。

●ちなみにこの十牛図(牧牛図とも呼ばれるらしい)は、禅の世界では有名なものらしいが、河合隼雄氏の『ユング心理学と仏教』(岩波書店)によれば、普明という人の書いたものと、廓庵という人の書いたものの2種類が有名で、うちにあるのは円で囲われた日本に比較的普及したと言われる「廓庵」のものを別の日本人の版画家が独自に画風をアレンジして書いたものだと思われる。
 中身は「廓庵」のそれと同じである。
 1,なにか(牛)を探している若者が、2,足跡を見つけ、3,牛を見つけ、4,牛を手なずけて捕まえ、5,牛を連れて歩く(ここまでは写真の上段)。6,牛の背中に乗り行く先を牛に任せた若者。7,牛と人が一体化して牛はいなくなる。ここからは、非常に難しいところで、河合氏も上田閑照氏の言葉を引き合いに出し「相互透入相互互転の関係」ということになるらしい。まず、8,何もなくなる(絶対無の世界)。9,川の流れと岸辺に花咲く木。10,老人と若者が向き合っている。
 この10の老人と若者は、最初の若者が「別の他者と出会ったということではなく」、「真の自己がその『向かい合った二人』になっている」状態だという。
■まあ、禅だからよくわからないということで斬り捨ててしまえば簡単なことなのかもしれないが、わたしはそうはできなかった。特に8。
 そして、わたし自身も最後の10の二人の人物が一人の人物であるというところなど、まさしく『雲の溜まる休日』の最後のシーンで考えていたことで、それがやりたかったというのが最も大きい。
 そういう意味でもこの十牛図の世界には、とても大きな創造的可能性を感じるのだった。
●まあ、ただネットでいろいろ調べると、カルト的な解釈などもあるようで、批判的な意見も多い。
 そんなものはどんな解釈だろうと構わないだろう、とわたしは思う。何だよ、解釈って。「解釈」についてはただその言葉を聞くだけで何だか腹立たしい気持ちになるから不思議なのだ。

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憂鬱と現象学

●うーん、どうも気分がのらない。やっぱり行きたくない。
 とはいえ、きっと時間が経つのはあっという間だ。

■物理的には同じ時間であるはずの3日間という時間も、気分ののらない3日間は長く感じられるし、舞台の本番前3日間はあっという間である。
 こうした個人によって見え方の異なる捉え方が現象学の基礎にあるらしい。
 だから、時間にしても距離にしても、あるいは重さというのもあるだろう、そうした見方は決して「主観的」ではないとハイデガーは教えてくれているが、このように「現象学的視点」と「主観的視点」というのは非常に間違いやすい。
■そして、憂鬱な気分のときには大抵のことに気分がのらないのだった。