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その狭間

●今日はいろいろと思いつくことがあったが、まだ整理しきれない。
たとえば、ポスト構造主義と構造主義の狭間にあるところの認識の違いのようなものが、何となく横たわっていて、どちら側からその人が話をしているのか何となくわかると実はかなりコミュニケーションはかなりスムーズに進むのではないかという話。
あるいは20世紀の思想と21世紀に向けての思想の狭間の話。
●疲れがひどい。一向に片付かないものがあるが、もう限界。目もかなり充血中。

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価値観と平明さ

●久しぶりにパターナリズムのことを思い出していた。
 いわゆるオマカセ主義もパターナリズム(父親的温情主義)を助長する姿勢として、挙げられるわけだが、わたし自身がこのパターナリズムに陥ることがとにかく嫌なのだ。特に仕事においては。それでもいつの間にかそうなってしまいかねない状況になっていることに気付くと吐き気がする。
●『知の攻略〜思想読本』(作品社)というちょっとどうかと思うタイトルのMOOK本で「ハイデガー」の巻があって、それを購入していたのだが、ふと気になって読み始めたのは、もちろん『ブリタニカ草稿』のこともあるけれど、古井由吉氏と木田元氏の対談に興味があったからだ。
 そのなかで、まず『存在と時間』が表現主義だとある。そして、現象学そのものも表現主義だと。つまり、古井氏の言葉を借りれば、「主体と客体の中にあるものをすべて外に押し出していく。それを観察して表現する」のが現象学というわけだ。まさしくそうなってくると、表現主義的なことになってくる。
 見学者の作り方もそうだが、わたしがハイデガーに惹かれたのもおそらくはこの表現主義的な手つきになのかもしれない。
●さらに、核心的なところで木田氏は「表現主義の文体は何かと言いますと、凄まじい形容詞がいくつもいくつも並べられて、最後に実につまらない名詞が来る(笑)」と語り、それはまさしくその通りだが、それに対しての古井氏の言葉には何か示唆するものがある。

 文章の平明さというのは、その世界の価値観の安定とやっぱり関係がある。価値観が揺らいだところで平明な文章を書くということは一種の偽善になるわけです。文学的偽善、哲学的偽善。かといって新しい文体はそうそう簡単に生み出せるわけではない。だから、例えば形容詞をいくつも連ねる。一方では論者の情念のたたみかけということもある。けれども、形容詞の持っている既得の情念なり、観念なり、喚起力を無化していくというところもある。-中略- ハイデガーは一種のパトスから形容詞をたたみかけてくるけれども、よく見ると、その形容詞をできるだけ従来の情念から洗い直すためにたたみかけてくる。最後の名詞がつまらないというのは、名詞はどうにもならないから。(笑)(対談「ハイデガーの魔力」より)

 21世紀初頭の日本の団塊の世代が過ぎ去ったあとの日本社会が待ち受けるのは、また新たな価値観の世界になるはずだ。
 それを踏まえて、見学者としての活動をさらに続けていくことにしよう。

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働くことに疲れたら

●内田樹(たつる)氏の言葉は非常にわかりやすく届いてくる。
 『疲れすぎて眠れぬ夜のために』のなかの「働くことに疲れたら」の章は、今、まさに読み応えのある内容だった。
●レイバーとビジネスの違いを説明し、ビジネスの面白さはお金儲けではなく、何か新しいことをするとその結果がすぐに出る、その「反応の速さ」にあるのだと説く。だからこそ、自分の取れる「責任」と「リスク」は次第に大きくなることで、その反応に対する手応えをさらに大きく実感できることが、つまり上に立つということではないか。
 レイバーとは、やることが決まっていてマニュアルの中で、ただこなしていくだけの仕事。リスクも責任もなく、仕事に対しては給料しかない。わたしのバイト時代はまさしく、レイバーだった。
 不祥事を起こした企業の社長や政治家、いじめを隠す学校の校長など、上に立つものが責任をできるかぎり、先延ばししようと別のところに非を探す。そんなところに未来はない。
●それを踏まえて、「勝ち組・負け組」などという「さもしい言葉」を使う世界ではなく、自分たちが作ったものに対して、正当な対価を得ること、その上によろこびも合わせてもらえるかどうかという世界に自分たちがどうやって関わっていけるか、そういう社会、あるいはその手前にある会社をどうやって培っていけるか。
 そういう世界で、周りもやっているからと横しか見ないくだらない社会にわたしはまったく興味がない。相手にしている時間が無駄だ。

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何ができるか

●今日は金曜日。この一週間何とか生きていられた。何とも言えないこの充足感のなさはどうしたらいいものか。
●朝のニュースではわたしの生まれた町の役場の役人が出ていて、舛添要一厚生労働大臣に責められたことに対して、何か言っている。年金の横領問題。そんなものは結局氷山の一角でしかないんじゃないか。
 この町に生きていれば、それは肌で感じられる。そして、それにまた馴染んでしまえば、いつのまにかそれが当然のことのようになっている。
 いや、そんなに極悪人がいるわけじゃない。ただ、自分たちがやっている現在のことと、世界がどういう方向にこれから進もうとしているかというそのギャップに気付かずにいるだけだ。まあ、それが問題なわけで。
●昨日の話を引き継げば、「だから、今こそ俺たちはもっと○○していかねばならない」とする姿勢は確かに可能だ。わたしも気分が乗っているときはそうしているのも事実。そうしていれば、少しは気もまぎれる。
 しかし、本当はそうした態度はあまり意味がないんじゃないかとも思える。一種の表現として、それはありだとは思うが、効果的かどうかという意味ではどうも”?”が残る。
 ここでは(いや、ほとんどの地方でもそうだと思うが)一種の「実存主義的態度」が良かれ悪しかれ深く根ざしているのであって、それも結局、この日記の冒頭にある「充足感の無さ」から生まれてくるものではないかとも思う。「真実」や「正義」を振りかざすアメリカ的なものに対する一種の抵抗にはなりうるが、そこに甘えのようなものが加わると、もうどうにもならない駄目スパイラルに陥る。「ニヒリズム」しか残らない。
●もっともっと俯瞰で見たい。
 そして、今のわたしが出せる答えは耳を傾け、そこに共感する以外にない。「甘え」のないあらゆる話にわたしは共感できると思う。今のわたしにできるのはそれしかない。

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ためらいの倫理学

●Amazonで注文した『ためらいの倫理学—戦争・性・物語“>』が到着。
 気付けば、ここ最近は内田樹(たつる)氏の本が増えている。
 誰か気になる作家や思想家がいて、それを追いかけて本を買うということは今まで多かったが、いつのまにかこの人の本が増えていたという現象は初めてのことだ。
●短い文章が続くので、気になったタイトルから読む。
 「分かりにくく書くこと」の愉悦について
●なんて興味深いタイトルだろう。
 言わばポストモダニズム的論文を合理的・実存的視点から指摘した問題点を参照しながら、実際のところ、「自分が何を言っているのかわかっていないときに、変に面白いことを言い出す人がいる」とか、「不明瞭なものがすべて深遠であるわけではないが、不明瞭である上に深遠でもある思想というのは確かに存在する」とかいうことが書かれており、人間のデタラメさをどれだけ受容できるかというのは、人間のスケールの問題だということにも共感できる。
●ストレスの溜まる仕事の毎日だが、こうしたものに触れ、また舞台のことを考え、あるいはここに関わってくれた役者達・スタッフの人びとのことを思い出すと、まだやり残したこと、やらなければならないことが山ほどあるから、生きていかなければと思うのだ。

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臨床哲学

●昨日の話とも繋がってくるが、最近は『臨床とことば』を読み直している。
●臨床心理学者の河合隼雄氏と臨床哲学を提唱する鷲田清一氏の対談。
 臨床哲学は個別ということにこだわりつづけ、個別の足し算ではなく、個別という一例を深めることで普遍的な場に出る。臨床心理学でいうところの事例研究。理論のことは勉強しても、ディスカッションなどの席では一切使わない。
 こういう話が今のわたしには必要で、頷くことばかりだ。
●日本の倫理基準についても、最終的には美的判断ではないかということ。
 「嘘をついてはいけない」という倫理・道徳ではなく、その場面で「嘘をつくこと」が美しいか、美しくないか。
●そして、それらはきっと作品作りにも通じることであり、彫刻家のジャコメッティは「一人の人を描き切って、描き切ったら、なぜかその顔は、誰の顔でもあるように見える」という。
 この言葉から、敢えて抽象的な言葉で普遍性を語ろうとせずとも、別のルートがあることを改めて再認識できた。
 ここからおそらく次の作品も見えてくるのではないかと思っている。

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発見の思想

●久しぶりに仕事で淡路町に出る。今日は電車で移動。

●最近どうも見学視点が鈍っているようにも思っていたが、少しずつよみがえってくる。
 ちょっと思いついたことをすぐにメモできるようなこと状態でなければ。脳が運動している状態。発見を求めようとする頭になっていない。
 仕事では問題発見から問題解決。それの繰り返しばかりと脳は疲弊するのではないか。
●喜びと共にある発見は、「これは金になるぞ」とかそういうことではなく、もっと純粋な「これ、こんな見え方が出来るんだ」とか、驚きと喜びの発見が、また次の活力になる。
 そのための見学。それを与える作品づくりをしようと思ったのだった。
 で、それは身近なことから、できることから実行していく。

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個人的な神話を作るということ

●今日も二つの日記にわけて。
 昨日からの課題だった『神話と日本人の心』(河合隼雄・著/岩波書店)を読んでいるのだが、いくつかの場面で太田省吾氏の演劇論と通じるところがあるのが興味深い。
 思えば、太田さんも世田谷のセミナーで河合さんのことを引用していたような気もする。

●この本のなかでジョーゼフ・キャンベルの言葉から「これから長い長いあいだ、私たちは神話を持つことができません。物事は神話化されるにはあまりにも早く変化しすぎているので。」と引用し、さらにこう続けている。「各個人が自分の生活に関わりのある神話的な様相を見つけていく必要があります。」
 これに関して河合氏も「個人の自由は拡大したが、それに伴って、個人の責任が重くなるのも当然である。個人の責務のひとつとして、「自分の生活に関わりのある神話的な様相を見つけていく」ことがあるのを自覚しなくてはならない。それを怠っていると、途方もない不幸に陥ったり、不安に襲われたり、他人に対して迷惑をかけたりすることになる。言うなれば、各人は自分にふさわしい「個人神話」を見出さねばならないのである。」
●つまり、「科学の知」に先行された現代の中で、いかに「神話的な様相を見つけ」ることができるか。それが演劇というメディアに当てはまる。そこで「神話の知」をいかにして現代によみがえらせることができるのか。
 「科学の知」は支配・コントロールしようとする。これに対して、「神話の知」や「あいまいの知」は、本来日本人が優れた部分として持っているはずだ。
 もちろん、「科学の知」の発展ぶりはめざましく、わたしも圧倒的にコンピュータの前に座っている時間が長いし、それなしでは生きていけないほどだ。だからこそ、「神話の知」を見直す必要がある。それは演劇だからこそできることだと思う。

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なにをもとめていたか

●昨日の影響を受けて『存在と時間』を読む。非常に久しぶりだ。あ、ここであまり具体的には書いてしまうと、向こうで書くことがなくなってしまうので、この新鮮な気持ちはそのままに取っておこう。

●ただ、昨日の話を整理するために考えておくならば、問題はハイデガーが論理の力によって克服しようとしたもの、そしてベケットが弱者の論理で乗り越えようとしたものは何だったのかという問題だ。これについては、保坂氏も「わからない」と最後に言っていた。
 ハイデガーが問題にした「現存在」というテーマで何を浮き彫りにしたかったのか。もちろん、「存在」を問いなおすというのが『存在と時間』の一つの大きなテーマになっているだろうことはタイトルからも想像できるし、これまで読んできた箇所でも繰り返している。
 しかし、ベケットのいわゆる「わからないもの」として表出されるそれと、この現存在をどう関連づけていいものか、昨日はだいぶスッキリしたように思ったのだが、まだ、はっきりとはしない。
 そこにもおそらく人間の実存に関わる何か、わたしがここにいるとはどういうことなのか、その曖昧でどうにもはっきりしないことを何とか文学にしようとした人たちがいたわけだし、あるいはそれを論理で何とか明確にしようとした人たちがいたのだ。その当たりが大きなヒントになるはずだし、それはひいてはわたしが何故ハイデガーを読むのか、一部の演劇をよく見ようとするのか。そのこととも関係してくるはずだ。
 いずれにせよ、わたしは明らかにその影響下にいるということだ。そこを考えずにはいられない人たちは、他にもきっといる。

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若者という年齢層

●昨日の日記にも書いたように、朝は4時半に目覚めてしまったものだから、妙に一日が長い。しかも、群馬に行き、さらにあちこちを丁寧に回ったものだから非常に疲れた。
 帰ってきたのは10時半過ぎ。まあ、そんな日常は延々と続くので、それは日常の方に任せておくとして…、演劇のことを考える頭に切り替えていこう。

●久しぶりに劇作家協会の『ト書き』も届いて、「そうか劇作家協会員だったんだ」ということも思い出したわけだし、部屋のスッキリ片付いたわけだし。
●で、今、若者たちのシーンを書きたいのだが、正直、だんだんどこからどこまでが若者(青年)と考えていい年代なのかわからなくなってきた。なにしろわたし自身が10代の頃から基本的にはあまり変わっていないんじゃないかと思っているからだが、それはまだわたしのなかに社会に対しても、自分自身に対しても、数多くの混乱が残っているからだろう。
 だから、とりあえず自分が一番混乱していた時期のことを思い出すようにして書くしかないわけだが、あのとき言えなかった言葉を何とか戯曲状の言葉に変えようとしてエネルギーを得ていたときから、やや視点は変わりつつある。
 混乱そのものに向きあう態度や状況を描く。
 そうした視点の変化が作品に及ぼす影響を大きいかもしれない。

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ベンサムとwiki

●今日は急遽、ワークショップそのものは中止。しかし遅れてくるEさんとは連絡の付きようがないので、とりあえず稽古場で来るのを待つ。

 そこで、「今日は中止です」と伝えたならば、それはそれでおもしろいのかもしれないが、せっかく来てもらったし、わたしたちも稽古場にいるので、少し公演のイメージなどを話す。
●ワークショップを中止にしようと思った原因の一つに、わたしが途中で抜けなければならないというのもあり、あとは倉光とEさんの話し合いということで、わたしはお先に失礼して、群馬へ向かう。

●電車の中でフーコーがいうところの権力構造とベンサムの一望監視システムについて考えていた。

●一方で見学者内でwikiを使って、情報を整理していくことにした。
 戯曲そのもののこともあるが、演技の体系化をまとめるにあたってはこうしたシステムが便利である。
■見学者の場合、メンバーの二人だけが管理しているだけなのだが、たとえば、このシステムは一般企業内で使用する場合、もしかしたらベンサムの一望監視システムよりさらに強度なシステムとなってはいないか。
 そんなことも合わせて考える。

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現象学という言葉の意味は限定できない

■いきなりの話で恐縮ではありますが、ここで「現象」というカテゴリを結構乱発しているのは、何も書くことがない場合、ただつれづれなるままにそのときに思いついたことをただ書くという作業をしているからだが、じゃあ、どうしてそれが「現象」なのかということになったとき、今ひとつ自分自身に説明し切れていないように思えたので、改めて。

■現象学は18世紀にカントが『自然主義科学の形而上学的基礎』という文献の中で、「物質の運動ないし静止を表象の種類ないし様態との関係においてのみ、つまり外観の現われとしてのみ規定する運動論の一部門」と書いたことに始まるようだが、これはあくまで自然科学の領域内で使われただけのことである。
■むしろ、哲学の世界ではヘーゲルの未完の著『精神現象学』のなかで「『現象』は『精神の現象』を意味する。精神そのもののそのつどの姿、形態のこと、その姿をその現れてくるがままに記述する作業」と書いているところによる、そっち側の現象学である。
 そして、それは現象学の父と勝手にわたしが呼んでいるフッサールに始まり、その後継から発展させているハイデガー、あるいは場所を変え、メルロ=ポンティに続くその系譜のなかの現象学だ。
■で、わたしはフッサールとハイデガーが共著として書いた『ブリタニカ論文』のことが気になっている。
 これを『ブリタニカ』として、フッサールとハイデガーを出さない日本人だけの映像用台本を書きたいと思っているのだ。これもすでに構想から3年以上経っていて、この段階でとりあえず止まっている。
●というわけで、現象学の復習。『現象学の思想』(木田元・著/ちくま学芸文庫)より一部引用しました。