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帰国/iTunesUで再会するフーコー

●中国南方航空で帰国。
●大連空港では毎度立ち寄るお土産屋さんで顔見知りになっており、セールストークしてこない。むしろ仕入事情を教えてくれるので、やはり何度も顔を出し、仲良くなるのは大事だなあと思う。

●帰りは飛行機の中で(いや、思い起こせば行きの飛行機もそうだったが)40人くらいの若い大学卒業したてくらいのリクルートスーツを着た集団がいて、なかには先生と言われる人が二,三人いたようで、いわば団体客。彼らは中国語がわかるわけでもなく、かといって学生のようでもない。「出張」という言葉を発していたし、まったく不思議な団体で、何の組織なのかわからないからいよいよ不可解な気持ちになったが、まあ、彼らに言わせれば正体を明かす必要もなく、別に構わないのだけれど、いかんせんその団体の中に席を作られてしまったために落ち着いて眠れなかった。

●そんななか、iTunesUというiTunesで大学の講義を無料で公開しているものがあって、そのラインナップも数年前に比べずいぶん充実していたので、タイトルで面白そうな慶応・藤沢キャンパスの「社会構造分析2011」をあらかじめダウンロードしていたので、そのなかから初回を聴講する。
●授業で読もうとしているのが、ミシェル・フーコーだと聞き、お!と思いつつ、構造や解釈など、いわゆる構造主義的な分析手法について、わかりやすい言葉や事例を使って講義していて、かなり面白い。
●たとえば、言葉とは喧嘩できるが映像や写真とは喧嘩できない。映像や写真にも文法(構造、枠組み)がある。フレームの中にあるものとないのの。ないもののほうが重要。なにがなくされているか?何が語られて、何が語られていないか。これは戯曲でもそうだし、書く方の立場で言えば、敢えて何を書かなかったかというところから、何を書きたかったかが見えてくると言う逆説的な発想が単純に興味深い。
 わたしたちが日常の中でも、他人の表情や服装など、もちろんテレビから流されてくる情報も含めて、普段から見ているものから読まされている(解釈させられている)もの、無意識に読んでいるものは何かということだ。
●まさに、このタイトルの「百の目、千の事象」はフレーム=目とそのフレームから溢れる出来事や事物=事象のことだし、そうした視点を改めて深く理解したいと思わせてもらえた。こういうものにふと出会えることの喜びを感じつつ、長距離移動の家路につく。

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吉本隆明氏

●同時代に生きる日本人に思想家とか哲学者というのがいるというのを知ったのはこの人を通してだった。
●それからそれがどういうことなのか、この人の著作を読んだし、同時に六〇年代のことにも興味を持った。いわば時代の空気みたいなものは感じられたが、しかし、わからなかった。
 後期のわかりやすい文体や語り口調とはまったく異なるものだ。
●多くの今を生きる日本人が直接・間接的に大きな影響を受けたはずだ。

●そんななかわたしは毎月恒例の中国大連出張。
●こちらは雨。思ったよりも寒くない。頭痛を抱えてしまったので、安静にしておこう。

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やろう

●ちょっと遅くまで会社に残って結局FaceTimeでいろいろお話。
●やるべき仕事は結局持ち帰りだけれど、まあ、持ち帰ってもなかなか進まないという。難しい問題を抱えている。そして出張も明日を乗り切ればというところだ。逆に言えば、明日しっかり終わらせないとなあ。とりあえずやるべきミッションは完了させる。
●あと、つぶやいたが、「『存在と時間』を読む」だが2006年からそのまま放置されていて、どこにもリンク貼られてないのに、どこからかリンクを張っていただいた。これは何とかせねばなるまい。
●あれは本当につらい作業だけれど、読み終えて書き終えるときの達成感はハンパない。そして、終えたあとは自信も出て、不思議とまた別の仕事に関してもやってやろうという気持ちになるから不思議だ。アレは続けなければなあ。うん。やろう。

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削ぎ落とすべきもの

●なぜかニュースから縁あって、哲学者・渡邊二郎氏の著作に行き着いた。まったく不勉強で存じ上げなかったのだけれど、レビューから推察するに、ユーモアなどは少なくかなり丁寧に実直に解説してくれるらしい。特にそのなかでも芸術の哲学 (ちくま学芸文庫)構造と解釈 (ちくま学芸文庫)を注文した。
●芸術/哲学、また、解釈学/構造主義などの観点から考えるにはかなり教科書的な存在のようだ。そして、今こそわたしは哲学に戻るべきだと思っている。
 まさに「構造と解釈」が乗り越えるべき問題があるように思う「左だ右だというつまらないぶつかり合い」を越えたところの、本来的な哲学的な問いからようやく人間としての普遍的なトンネルに繋がるはずだ。
●そして、その普遍的なトンネルを通って、さらに芸術の手つきで語れれば、また次の展開が見えるのではないかと思っている。
●情報の多すぎる世の中だからこそ、シンプルに削ぎ落としたものが見たいのだし、あるいは自分もそうしたものを作りたい。そんな思いはより一層強くなっている。

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ハーバード白熱教室第一回から第六回まで

●去年ブームになったあの「白熱教室」の再放送録画を昨日からまとめて見ている。本放送時もわずかには見たが、最初から見られなかったので年始の再放送を待っていた。
 ほぼ現代倫理学の話だった。主にベンサムやJ・S・ミルの功利主義の話(結果優先)は話としては非常にわかりやすいが、リバタリアニズムの話によって否定され、さらにジョン・ロックの自然法によって自由主義も批判されてきた。ここまではなんとかわかる。だが、第六回動機と結果 どちらが大切?」のカントの話になると急にややこしくなる。
 自律と他律、自由と道徳性の概念の繋がり、義務の動機。
 そもそもこの番組はソクラテス的対話によって、やや即興的に学生とマイケル・サンデル氏が(方向性はもちろん既に決められているとは言え)共に問いを立て、共に問いを考えることに意味がある。
●この際、中身は何でもいい。たとえば、倫理学的に言えば、極めて日本では現在的でわかりやすいと思われる「他者危害の原則」などについては語られていないし、環境倫理の問題にも触れられていない。「文学」についてでも、あるいは「構造主義」についてでもいいはずだ。
●いずれにしても刺激的だ。こんな哲学・倫理学のメジャーブームは95年の『ソフィーの世界』以来ではないか。
●そんなわけで、今まで読んでいなかった、忘れていた本を引っ張り出して読み返す。

●買い物にも出掛ける。またしばらく家を空けてしまうから。今回ばかりはやや不安もあるが、まあ、何とかなるだろう。何とかならないことはない。

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歯医者へ、四時間の大手術

●目が醒めたのはギリギリだった。一人準備して軽く握ってもらったおにぎりを腹の中に突っ込む。車で朝10時に予約していた歯医者へ。
●すぐに呼ばれたが、終わったのは14時くらい。4時間である。そもそもが昔の詰め物の中身を掃除して、また新しくかぶせようということだけだったのだが…。右下の歯、おそらく17年前くらい前にかぶせた銀歯の中がしっかり虫歯になっていたらしい。この虫歯を全部削り出すと結局神経にあたると言うことで、神経も削りだしてもらうことに。
 さて、ここで、新しいかぶせをセラミックにするか、銀歯にするかということで、何気なくセラミックを選んでしまった。二本分で14万円なり。うーん、奇しくも自分の誕生日に支払うことに…。それくらい払うんだったら、今ほしいものいっぱいあるんだけどなあ。あと、引越資金やらでこれから嫌でも入り用になるし。これ以上はもう歯にお金をかけないようにしよう。これが最後だ。あとは保険が効く範囲で充分だ。
 何だか、あとになればなるほど後悔する。約束書みたいなのを先に書かされちゃったし。悪い歯医者じゃないんだけどね。ただ、別のことは丁寧に説明してたけど、パターナリズム的なところでもちょっと納得いかない。
●そんなこんなで書いていたらだんだん嫌な気分になってきた。自分のこの判断力の弱さにちょっと嫌気がさす。
●それから新居の為のカーテンを見に行く。これも、工事業者にお願いした窓のサイズがやや規格外のために自分たちでカーテンレールを見繕わなければならなくなったのだ。そういう中途半端な仕事はしないでいただきたいんだけど。
●いずれにしても、専門家に仕事を頼む際のパターナリズム。どうなっているんだろう、最近。前よりあちこち悪くなっている気がしないでもない。うーん、せめてわたしが自分のプロとしてやっている仕事に関しては、職業倫理上、同じようなことはないようにしたい。

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食べること

●『南極料理人』を観る。
 久しぶりにいい映画だった。そして多くの人たちが感じるようにこの作品の魅力は料理にある。観ているだけで幸せになるような料理。『かもめ食堂』にはじまり、料理を扱う映画が最近は増えているが、あまり積極的に観てはいなかった。いいなあ。ほっこりした気分にさせてもらえる。

●実際の食事がこんな感じだけに。余計にいい。昨日も今日も二品しかないおかずのうち一品は同じ「酸菜」。左右を入れ替えて気分を変えているつもりだろうか。最初の二日はそれなりによかったのに。そんなこんなで料理は大事だと改めて思い知る。
 そうはいいつつ、ダイエットのためには、あまり美味いものを食べてばかりもいられないのだが…。
●さて、話はまったく変わるが、次世代iPhoneのプロトタイプが拾われ、画像が公開、解体されさらに公開とメディア倫理の問題で問われているが、それに対して画像を公開したGizmodo親会社のCEOインタビューの記事が面白かった。これは秀逸な台詞である。

 「われわれは、いいように使われたのかもしれないし、罪を犯したのかもしれません。でも両方を同時にはできません。」

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時が過ぎる

●レヴィ=ストロースが亡くなったというのはYahooなどのニュースでは見かけないので、内田樹先生のBlogで知る。いわずとしれた構造主義者の第一人者でもあるが、すでに歴史的人物のような存在のようではあったものの、改めて亡くなったのだということを知ると、「またひとつの時代が終わっていく」と何だか感慨深いものがある。
●さて、そんなふうに大きな時代が終わっていくように、小さな年もまた終わっていく。そんなわけで、2009年も残す2ヶ月あるわけだが、手帳を変える。正確には手帳の中のリフィルを変える。スケジュールで使うのは月間のカレンダーのみ。あとは無地のノートと罫線のノート、あとは方眼のノートをただ挟んだだけだ。今年はこれで行きたい。あとそれを手帳から外に出す際にまとめられるバインダーも購入。Amazonから届く。
●今日もまだまだ寒いので、炬燵を出す。明日はまた暖かくなるようだが、とにかく炬燵は出した。これですっかり冬モードである。そうしてまた一つの季節が終わる。

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懲りない

●2週間以上前に掛かってきたある電話業者の同じ営業の電話がかかってくる。まあ、その電話のかけ方がひどかったので、それだけでイライラさせられたわけだったが、その上で、わざわざ東京から来て、結局ひかり電話では駄目だとわかり、そのまま帰って行ったという経験を持ちながら、また別の営業マンが電話をかけてくる。よっぽどノルマが厳しいんだろうなあ、とは思うものの、帰って本質的なところではイメージも悪く、基本的にこういう企業とわたしは絶対契約しない。
●あと、環境関係の人と話をするのだけれど、これも果たしてどこまで本当なのか。大企業がこぞって環境マネジメントを進めていく時代があり、それが済し崩し的に続く中、これらはおそらく下記環境倫理学の基本三方針によっているところが強いのだろう。

自然の生存権
人間だけでなく自然も生存の権利を持つ、人間は自然の生存を守る義務を持つ、といった考え方。「自然と人間の共生」という考え方にまとめることもできる。より強く権利を主張する自然の権利の考え方をある程度抑制したもので、行き過ぎた自然中心主義ではなくあくまで共存・共生を念頭に置き、公平な議論を目的とする。
世代間倫理
現在を生きている世代は、未来を生きる世代の生存可能性に対して責任があるという考え方。現在のように世代間に横たわる不均衡を調整する、という意味で「世代倫理論」「世代間調整」とも言う。深く論議していくと論理的矛盾も出てくるが、「現在世代の未来世代への責任」はある程度受け入れられている。現在を生きている人類が、環境問題の解決に当たって、先延ばしせず責任を持って行動するための根拠となる。
地球有限主義
他の目的よりも有限な地球環境を守ることを優先する、生態系や地球資源を軸に物事を考える、といった考え方。他の目的とは、快適な生活、経済的利益、健康、幸福など、人類にとっての利益を意味する。人類への利益の最優先ではなく、行き過ぎた地球環境の最優先でもなく、持続的に生態系や地球資源を利用していこうという主張。 Wikipedia-環境倫理学より-

●くれぐれも注意しなければならないのは、環境を金に換えようという者たちがいくらでもいるということだ。環境改善そのものが目的ではなく、環境を道具に金を目的とする人間を見分けるのもかなり面倒なことになる。

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トルストイとドストエフスキー

ドストエフスキーとトルストイ
バフチンは「ドストエフスキーの詩学」において、ドストエフスキーとレフ・トルストイの文学の明確な差異を、画期的なポリフォニー論などによって示した。
ドストエフスキーの文学においては、上記のように客観的に叙述し得る単一的な真理は存在せず、各人の思想が否定されずに尊重される。各登場人物は、作者ドストエフスキーと同じように、1人の人間として思想や信念を固持する権利が与えられている。それはすなわち人格の尊重である。ところがトルストイの小説においては、しばしばトルストイの考えに登場人物が近づくことが、真理への到達と同視される。そしてトルストイと反対の意見を持つ人物は、しばしば自己完成からは程遠い人物として描かれるのである。バフチンはこれをモノローグな構成として批判した。(Wikipedia ミハイル・バフチンより

 という話がまずあって、いや、そもそも「管理とは何か」という話なのだけれど、まあ、英語で言えばコントロールなわけで、そもそも経済活動も含め、ある種「コントロールできる」という思考が前提としてある。わたしは見学者ではとことん万物の事象は最終的にコントロールは出来ないという立場でものをつくってきたつもりであるが、こと会社の仕事のことを考えていくと、あるいは管理者の仕事ということを考えていくと、コントロールを前提条件として外すわけにはいかなくなる。「制御できないデンジャーを制御できるリスクに変換する」とは内田樹先生の言葉だが、またデータベースのような非常に0/1の世界のことを考えていると、いよいよ管理とは何か考えざるを得ないのだった。
 もちろん、二分法も「0/1」から「00/01/10/11」、「000/001/010/011/100/101/110/111/」というように倍々に増えていくわけで、思考法をそのように倍々に増やしていけば、不特定多数のデンジャーもリスクに変換可能ではないかと考えないわけにはいかない。
 つまり、経済活動を行って行くにあたって、もちろん会社の安定・社員の安定生活を考えていけば、「なんだかわからないけど、たぶん大丈夫だ」という根拠のない自信は、それは、管理ではない。「こうすればこういう危機が訪れる可能性があるが、こう対処することでそれをカバーする」という筋道を立てなければならなくなる。
 おそらくそうした思考ばかりをしていると人間としてはかなり貧しくなる可能性がある。わたし自身は少なくともそう感じている。しかし、同時にこの不安定な世界の中で安定した収入を確保するためには、その責任が各人にある。そしてそうする人たちを守る責任がわたしには付いてしまった。こうすればこうなるのではないかと推論を出すことそのものは面白い。その面白さを楽しみながら、今はその責任を全うすべくやるしかない。

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再始動に向けて

現在、再始動に向けての準備中です。

過去の記事等につきましては、こちらからご参照下さい。

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『死と身体』

●『死と身体—コミュニケーションの磁場 (シリーズケアをひらく)』という内田樹氏の本を読み始める。
 河合隼雄先生が亡くなった今、わたしにとっては内田先生との出会いは新たな大きな一歩である。N氏から勧められていた『寝ながら学べる構造主義』もまた内田先生の本だったが、個人的には内田先生がレヴィナスを師匠と仰いでいるところに運命的なものを感じた。そして、何より言葉がすんなり入る。
 この本の第四章『わからないままそこに居る 身体と倫理』は非常に示唆的なタイトルだ。
 ここから、また思考的にも次の一歩を踏み出せるような気がする。