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何も書かない一月

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●わたしは何も書かなかった。本当に何も書かなかったな。テキストとして起こすことはなかった。ただ考えていた。考えて環境を整えて、それで一月という月が終わり、このブログも書かなくなってから一月が経ち、書かないとなればいくらでも書かないでいられることに自分で驚きもした。

●ただ、この最終週、震災直後に届いたこのMacbookPro”13のハードディスクは一度交換したものの、まただめになった。文字通りかりかりと音を立てて少しずつ壊れていった。
●この生き物のように死んでいくハードディスクの存在を思いながら考えていたのは、わたしが生まれた町で起きたアクリフーズの事件だった。2008年の冷凍餃子がわたしの周囲にいた人たちの経済環境にも影響を与えたように、今回の事件も確実に影響を与えるだろう。それはコロッとは死なないハードディスクのように緩やかに死んでいく。あるいは逆に言えば、死んだように見えても死なない。

●つまり、近代の問題はずっとわたしの前に横たわっていて、どんなに完璧な近代的管理体制を整えたとしても一つの小さな異分子が暴走することをコントロールはできない。そして、そんな異分子が生まれることそのものを問題にしなければ、われわれの社会はただただ窮屈なものになっていくだけだろう。とは言え同時に、ニヒリズムから暴走する異分子を肯定することもまた無意味だ。

●今こそこのあらゆる曖昧さに耐えなければならない。白黒ハッキリ付けようとする人間のことを簡単に信じてはいけない。

●しかし、それを言い訳に書かなかったことを肯定しようと曖昧にしたいわけではない。書かなければならないし、書きたいとも思っている。ドラマなのかポストドラマなのか、物語なのか出来事なのか、そのどちらでもない曖昧なものにしようと思っている。はっきりしてたまるか。

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欲望のアレンジメントを臨床的に見つめること

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●昨日の続きを読んでいく。
○人々はなぜ自ら進んで「搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人の為のみならず、自分自身のためにもこれらのものを欲する」のか。
 それを解き明かすのが、キーワードは「欲望のアレンジメント」だ。これが何かを考えたい。そして、ドゥルーズはどこに向かおうとしているのかを確認する。
○まず『千のプラトー』で採用されたという「アレンジメント」という概念とは何か。「アレンジメントとは、複数の要素が組み合わさって、一定のまとまりを持ったエージェントとして作動するさまを指示するために使われている。」
 「状態」を示すための言葉だし、しかもそれは複雑さを保った状態だ。では、「欲望のアレンジメント」とは何か。「欲望は主体に内在する。そして、その内在する力が諸々の要素と組み合わさって、欲望のアレンジメントが構成される」というところからもわかるように、いろんな要素と組み合わさった複雑さをそのままに「欲望が構成された状態」だ。

●「やりたいこと」 の核は主体に内在するが、それだけではない。周囲からの諸々の影響を受けてその「やりたいこと」は形づくられる。
●たとえば、「つながりたい」という欲望、「社会的正義を貫いてわかりやすい悪に制裁を加えたい」という欲望など、あるいはわかりやすいところでは物欲。その物欲を刺激する要素としての広告とか、考える方向は様々に広がる。あるいは資本主義という構造そのものも欲望を刺激する複雑で重要な要素だろう。
 それを中心に回る企業もそうだ。経営をする以上、どんなに素晴らしい理念を掲げようと「金儲け」はしなければならない。利益を出してこその企業であることに変わりはない。資本主義社会のなかでの活動では、そこは最大の起点になる。

欲望のアレンジメントの中で構成された位置部品としてのミクロ装置を通じて、「行為に対する行為」として、あるいはダイヤグラムとして作動する。したがって、確かに権力は社会に浸透しており、それを動かしているのだが、分析を権力までで留めてはならない。そうした権力がなぜ発生するのかを問わねばならない。なぜなら、権力は欲望の一つの変状に他ならないからだ。

●たとえば、「社畜」とか「ブラック企業」とかという名付けはそれぞれにこの資本主義社会の中である種の「権力」の発生を予防的に遠ざけようとする言葉かもしれない。
 ただ、どんなに遠ざけようとしても、必ず「権力」は発生する。

 特定の権力様式が特定の欲望のアレンジメントを前提にしているということは、その権力が何らかの理由で人々に欲望されていることを意味する。君主型権力が作動するためには、君主型権力による支配が欲望されていなければならない。規律訓練型権力が作動するためには、規律訓練の支配が欲望されていなければならない。コントロール社会が到来するためには、規律訓練ではない、チェック・ポイント型の管理方式による支配が欲望されていなければならない。

 つまり、欲望のあるところに「権力」が発生する。それは上からとか下からとか、高い所とか低い所とか関係なく発生する。
●だから、「搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人の為のみならず、自分自身のためにもこれらのものを欲する」のだ。
 「本当はやりたいこと」と「実際にさせられていること」という区別が、どうしても権力の概念の中に入り込んでしまうのだけれど、そうではなくて、欲望のほうから考えていくとわかることがあるだろう。

●最後のまとめで、ドゥルーズ=ガタリの方向性が示される。

あらゆる場面に応用可能な抽象的モデルを提唱しない。ドゥルーズ=ガタリは、まさに精神分析家が患者一般ではなく個々の患者に向かうように、一つ一つの具体的な権力装置、それを作動させるダイヤグラム、そして何よりもまず、その前提にある欲望のアレンジメントを分析することを提唱する。そこから自由に向けての問いが開かれる。その問いは、常に具体的な個々の状況において問われる。

●一つ一つの具体的なダイヤグラム、欲望のアレンジメントを分析すること、まさに臨床的に。この個別であること、臨床的であることを、徹底的にわたしも考えることだろうと思う。

●そのもっとも個的な最初の対象は「わたし」だ。「やりたいこと」と「実際にさせられていること」のギャップの中で苦しんでいたころの自分にはおそらくこのメッセージは届かない。しかし、今ならまた少しだけわかる。わたし自身の欲望のアレンジメントに忠実に耳を澄まそう。

●というわけで、『ドゥルーズの哲学原理』は読了した。

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構造から機械へ、反復のもつもの

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●昨日に引き続き今日も、『ドゥルーズの哲学原理』(國分功一郎・著/岩波現代全書001)から。
 今日は「第Ⅳ章 構造から機械へ」。ドゥルーズがガタリの思考を取り込むことで、第二の主体性につなぎ、自由間接話法でどちらの思考かの区分も曖昧にしつつ、その二人の主著『アンチ-オイディプス』で書こうとしたのはなんだったのか。あるいは、ドゥルーズにとっての構造主義はなんだったか、またガタリが作り出した「機械」という概念で(というかイメージを使って)何を描きたかったのか。そのあたりはやや複雑なので、簡単に整理しておきたい。

●と思ったが、一向に簡単にならなかった(笑)

○ここでは「構造とは、一般性であり、時間や変化があつかないもの」であり、それと対置されるイメージとして反復する「機械」がある。反復には時間があり、それでいて同じ物は二度とない。置換え不可能で交換不可能。(演劇をイメージすればまさにそのものだ)
 ここからフロイトの反復強迫を真逆から考える。
 「一般には、まず或る表象が何らかの理由で抑圧され、その抑圧には絶えずエネルギーが必要であるから、しばしば抑圧のエネルギーが緩んだときに抑圧された表象が再来する、と考えられている。ところが、ドゥルーズは、この定式を完全にひっくり返し、人は反復するからこそ抑圧するのだ、と述べている。そして、反復こそが或る種の経験を生きるための条件なのだ、とも。」
 ドゥルーズは「反復」の中にこそ生成の原理を見る。

○そして、「構造主義とはなにか」をドゥルーズの言葉で考えたり、以下の三つから無意識モデルについて分析へと進む。
 「実際には複数の要素がバラバラにうごめいているにもかかわらず、それらを大域的にまとめ上げて「エス」と予備、それを自我と対立させる」フロイト無意識モデル。
 これに対するラカン派精神分析の構造主義的発想に基づいたセリー的無意識モデル。
 さらにライプニッツ的な微細表象モデル。

●精神分析の言葉が増えてくるのは生成や変化を考える上では、必然だとも言える。

精神分析的に見ると、いわゆる「正常者」は軽い神経症患者として捉えられることになる。正常者は原抑圧に基づいて何らかの表象を抑圧し、それに伴うある程度の葛藤を抱えながら意味の中を生きていることになるからだ。すると、精神分析による治療は人を「正常」な神経症患者にする、と言ってよいことになる。では、そのとき、ドゥルーズ=ガタリのように原抑圧の理想的な作動そのものを疑うとどうなるだろうか? 軽い神経症患者としての「正常者」など本当に存在するのか、という疑問が出てくることになる。つまり、精神分析はありもしない「正常」の像に向かっていることになる。(P.166)

●ここでの話は複雑なものばかりだが、ドゥルーズ=ガタリという二人が行き着く先とこれから取り組んでいく「資本主義」と「政治」の問題に入っていくのも、この「原抑圧仮説からの脱却」と、ではなぜ人は自らを抑制するのか、「欲望と社会のみが存在する」のこの社会を考える段階に入っていく。

●しかし、これもまた2013年12月14日の浅い二度目の読みだ。まだまだ表層をなぞったに過ぎない。それこそ反復して読むことで読みの度に「経験」として変化するのだろう。

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思考させられるデタラメ(思考と主体性)

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Agence France-Presse/Getty Images

●Wall Street Journal(日本)から「幻覚が見えた」―マンデラ氏追悼式のでたらめ騒動手話通訳者の記事より。
 昨日一気に話題になったマンデラ氏追悼式のでたらめ騒動手話だが、その「でたらめ」と言われた内容について調べていくと、ちょっとドキリとさせられて、動揺を抑えることができなかった。その手話の内容を調べていくとこうあった。
 「さー、パーティを始めようぜ。大きな魚、小さな魚、ダンボール箱!」
 「確かに演説は退屈だ。でも大丈夫。もうすぐキスがやってくるから」
●この通訳が自己申告している統合失調症によるものなのか、ことの真相はよくわからないままだけれど、いずれにしてもこうしたスキゾ的な言語感覚にわたしは強烈に惹かれてしまう。それはもうどうしようもなく惹かれてしまうのだ。自分でもわからない。
 ただ、わたしのような人間には見えない世界がその先に広がっていて、天才にしか見えない世界があるらしいことはわたしにはわかっている。
●テキストを織っていく中で、絶対にあり得ない組み合わせを組み合わせてしまう何かがあって、それはわたしが書くような、あるいはシュルレアリスムで方法によって意図されるような、意図的なものじゃない、もっと自然な、それでいて特別なものだ。いや、そうした特殊性を神聖化しようってわけじゃない。

●ただ、それらのヒントをここでも『ドゥルーズの哲学原理』(國分功一郎・著/岩波現代全書001)の「第Ⅲ章 思考と主体性」から考えさせられることを引かせてもらおう。

 あらかじめもっていた企てによって発揮される主体性(第一の主体性)は、物事を既存の知覚の体制に沿って再認するにすぎず、少しも新しさをもたらさない。物事の変更につながらない。既存の知覚の体制を破壊するような知覚との出会いこそが、<物質に付け加わる主体性>(第二の主体性)をもたらす。

●まさにこの部分だ。第一の主体性というのは、いわば近代の「個人」の主体性そのものだ。そうではなくて、ドゥルーズの方法で言えば、わたしたちは何らかのシーニュ(しるし)に出会うことによって、暴力的に思考させられる。そして同時に國分さんが指摘するように、わたしがこの方向性でやってきていることの限界の壁もここにある。

 しかし、失敗を目指すことはできない。失敗は、目指した途端、失敗ではなくなるからである。そして、この問題点は、そのまま思考の理論にも跳ね返るだろう。思考は、出会いによって強制されて初めて生まれる。したがって、思考することを目指すことはできない。出会いは目指せない。

●だから、多くの引用を使う。そして、多くの他者を<わたし>のなかに取り込む。そのようにして極めて偶然性が多発しやすい環境を作る。その後、ドゥルーズがガタリと組んで思考するように、あるいは、ジャンルとジャンルが飛び越えるように。

●それにしても、わたしの基本的思考がこんなにドゥルーズにはまるとは思わなかった。これはユング派の河合隼雄さんに影響を受けてきたためなのか、あるいはドゥルーズの影響を受けて創作してきた人たちの作品に影響を受けてきたからか。あるいはそれらの組み合わせかもしれない。だから、わたしは早くこの短期的に起きているドゥルーズとの出会いのチャンスを有効に引き込んで、それを乗り越えたい。その次に行きたい。

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接続、切断、

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●わたしは元来、影響を受けやすい。扇情にのりやすくワクワクしたら眠れなくなるタイプだし、感覚で判断して感覚でモノを言うタイプだ。しかも調子に乗っているときは声もデカい。そんなわたしは、ロゴスの柱をしっかり摑んでおかないと、あとで大変後悔することになるのを経験的に知っているので、気を付けているわけだけれど、一方でロゴスの柱にしがみつつ、しかも「自我とは他者によって成り立つものだ」とか基本が受け身の待つ思想だから、いつまで経ってもその場から動けないのも事実。
 だからこそ、ドゥルーズはガタリと組んだのだろうと、ロゴスのところとは関係なく、まあ、ちょっと思うことがある。ある種の偶然を意図的に作り出すための他者の思考と言葉を拝借する感覚。他人の操縦する船で行き先を一緒に考えながら進むみたいな。
●わたしが境界にいるマージナルマンに興味を持つのも結局は「この場にいながら…わたしのなかの新しい感覚」をと期待するからということかもしれない。など、いろいろ考えていたことが腑に落ちる。

●あと、昼間、『つながりすぎ社会を生きる 浅田彰さん×千葉雅也さん朝日新聞デジタル』を受けて、こう書いた。

●マイノリティとしての「闇」の歩みみたいなものは方法として確かにもっとあってしかるべきだと思う。一方、わたしは「病み」の歩みを志向している。「闇」も「病み」も極めて個的なものに違いない。そして、いずれも「部分的に隠れる」ための手段にもなる。しかし、いずれも「小さな社会」を持ちうる、と。

●しかし、そもそもここで設定されている「不良」っていうのは、むしろ先行する「優等生システム」(それはバカッター問題や、過剰な道徳チェック)というマジョリティの対項としての「不良」というマイノリティで、要はそれってマージナルマンだし、中心から逃走した人たちのことだろう。
 だとしたら、わたしはやはり「やみを抱えて」中心で生きられない人のことを思うのだ。優等生でも、蚊帳の外でしか生きられない人がいる。優等生がシステムを支配するかどうかもここでは正直どうでもいい。彼らはそんな次元とはまったく別のところで、目もくれず存在しているのだし、あるいは光の中から見れば、不在というかたちでしか存在を証明できない。

●よみかえしたら、ここでも「スキゾ」より「アスペルガー症候群」という積極的「発達障害」という「病み」が書かれていた。つまり、「やみ」は「病み」であれ「闇」であれ、「部分的に隠れる」ための「くらやみ」が必要だと勝手に解釈しよう。一度切断してからまた接続することそのことに対しての共感は強く持てたのだ。

●そういう意味でも、あらためて内省的な反省に戻るならば、わたしはどちらかというと演劇的にも強く深い繋がりを求めすぎる傾向があり、一方で劇団化はしないというあくまでも作品ごとにキャストが集まる形をとってきたわけだけれど、それはある種のロマン主義の裏返しだったのかもしれない。

●だからこそ、15分くらいの短い上演と45分の休憩とトークセッションみたいなものの繰り返しが小さな空間でできるとよい。珈琲が飲めるような場所で。そういうものも積極的に書いていこうとふと思った。
 のだけれど、今はまずは書きかけのものを書きあげる。こちらでもふと、なんかの拍子でまた新しいシーンのイメージが湧いて出てきた。これだから、受動的主体性は困る。そのときによって書けるものって変わるから。困るといいながら変える気はないわけだけれど。ドゥルーズをキッカケに考えることは多い。出来事としてのシーンを書こう。

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リゾーム概念からマトリクスへ

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浅田彰『構造と力』より

●ドゥルーズからの、リゾーム概念(セミラティス・網状交差図式)から二手に分かれて一方は、マトリクス(子宮)へ。一方は、マトリクス組織へ。二つ同時に何かの瞬間にまた一気につながった。
●一つはまさしく出産=母体=子宮という意味での「マトリクス」と舞台美術でたまたま考えていた「網状交差図式」が、つながったことでより確信を得たこと。
●もうひとつは、マトリクス組織。仕事の方の組織について。以前ここでも「サテライト型組織図構想」というものを書いていたが、わざわざ一から立ち上げずともあったようだ。マトリクス組織という概念が。
 わたしとしては単純に、軍隊式の単一情報系統であるところの「ツリー構造」ではなく、実態に合わせた構造を図式化したかっただけだった。そのなかでたまたまリゾームを発見した。再発見といったほうがいいか。リゾームからマトリクスにたどり着けたことが幸いだ。そこからまたマトリクス組織図というものに繋がれた喜びもある。

●以下、代表的な組織形態を参照。

●調べていくとなるほどいろいろわかる。一般的に小規模企業では「職能型組織」と言って、製造なら製造、営業なら営業ととにかくその自分の職能は高まりやすい一方で、「業務プロセスが細分化し,プロセス間を渡る間に生産性が低下したり、縦割り組織になり、全社最適化よりも部門最適化になりやすい」という弱点が出る。
 そして、これは数名のごくわずかな組織では有効らしい。なるほど、数名なら部門間の組み合わせも少ないし、部門内でのリーダーもはっきりしやすい。その人しかいないというケースも多々あるだろう。だから、効率的なのだし、ある意味では儲かりやすいとも言える。

●しかし、数十名になってくると、事情は変わる。ある案件においてはこちらの人の方が詳しいが、こちらはダメということも往々にしてある。さらにいえば、何か一つができるから上長であるということにすると、評価の形が結局歪んでしまう。社長はなにもかもが誰よりもできないといけないということになってしまう。
 本来であれば、プロジェクトとか、あるいは生産の内容によってリーダーが変わったり、もっといえば営業のスタイルによってもリーダーは変わってもおかしくないのだ。
 マトリクス型組織図の欠点として「命令系統が複雑になり、複数の報告関係が公式に存在するので,責任を負うべき管理者があいまいになる傾向がある。」とあげられているが、だからこそ情報の系統をITなどをつかってオープンにして、一発でできるだけ広く情報共有できる方法にこそ力を入れる必要がある。
 そして、責任に関しては、責任を取ってもらうつもりもないし、そもそも誰にも責任など取れないと思っている。誰かをそれこそ吊し上げにすることが責任を取ることなのだろうか。責め立てることなのだろうか。そんな責任ならいよいよ必要ない。
 ただ、担当者意識(今流行の言葉で言えば、「じぶんごと」)としては考えてもらう必要がある。それはまた別の話で、今度はストーリーや信の話になる。責任の話からはそちらにつながらずそこで話は切断される。

●そんなこんなで仕事の組織について考えながら、同時にこの構造をどうやって舞台の中に取り込めるか考えはじめたらまた楽しくなった。そして、先週末に思いついた美術の方向で間違いないことを確信したし、あとは書くだけだと思っている。
 こちらも舞台の上を二重構造にすることで、いよいよ書けそうな気がしてきた。

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代替と代理、編まれるべきパート

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●代わりが効かないこと、代替不可能であることについてあれからずっと考えている。
 「社会のなかで必要とされる」ことはどういうことなのか。それは企業の生存に関わる命題でもある。
 小学生から蝶の研究をしていた茂木健一郎少年が東京大学においては「自分は単なる数字だったんだ」と、あるテレビ番組の中で東大生を前に話をしていた。これも深く関わっている。
 あるいは、先日も書いたヴァナキュラーという概念もしかり。

●そう、これはまさしく「近代」以降の語り直しのことなのだ。
 近代においては、まさに「積み木」のような<代替可能になる>ように設計された同じ規格の大きさのものを、積み上げたり、またばらして、再構築したりしている。
●一方で「わたし」が求められる意味というところでは、最も真逆なところでわかりやすい例で言えば恋愛がある。あるいは、さらに強いところで言えば母子関係。赤ん坊は、母親に生命をまるまる投げ出して寄り掛からざるを得ない。そうしたもう本当にどうにも代わりが効かない状態というものはまさに近代以降も同じなのだ。
 このことが戯曲の中でも少し書ければと思っている。

●ただ、これらについて考えるのはまた後日にしたい。あくまでも今は<代替不可能>な仕事について考えている。そんななか経済人であり、経営者であるわたしはこう考えた。

■新しいことにチャレンジする際に人に見えないブラックボックスができるのは当たり前。本人さえ模索しながら前に進んでいる。ただ、ルーチンワークにすべき単純なこともブラックボックスにしてしまって、「だから、わたしは代わりが効かない」とするのは本当に馬鹿げてるからやめたほうがいい。

●そして、鷲田清一さんの『パラレルな知性』をパラパラとめくっていると「パートの二つの意味」という文章のなかでこれについてすでに書かれていた。ここに新たな発見があった。
 まず前提として「代わりはいくらでもいる」と言われる場合の「代わり」、それから「わたしはいま行けないからこの人物を名代として送る」というときの「代わり」。

 この「代わり」の二様、前者を<代替>、後者を<代理>と呼んでみよう。するとこの二つは、ふつう「部分」と訳される「パート」という語の二つの意味に対応することが見えてくる。

 まさに、<代替>と<代理>のことなのだとわかった。さらに面白いのはこの先だ。まだ自分のモノになっていない。

 パートという語からは、だから、パーティション(分割)とパーティシペーション(参加)という、対極的な二つの語が派生してくる。後者は、音楽の組曲(パルティータ)のように、どのパートを外しても全体は成り立たないという、全員参加(パート・テイキング)の様態である。
 パートタイムの業務が雇用/解雇という組織としての企業論理の中に組み込まれているとすれば、パーティシペーションは、ネットワークとして編まれ、パートがうまく機能しないときは、その担い手を切り捨てるのではなく、それを他のパートがサポートするという働き方をする。そこでは、「これをするのは別にあなたでなくていい」という代替可能性ではなく、「あなたができないならだれかが代わりにやってくれるよ」という代理可能性がはたらく。

●引用が長くなったが、こうして書きながらわたしは自分の思考に切り替えている。そして、改めて企業の役割。地方の中小企業の受け皿としての役割を考えるのだ。

●一方で、こうした仕事について考えていると途端に戯曲の方でもいいアイデアが出てくる。まったく不思議なものだ。
 ある意味ではこのテーマ、近代の語り直しの問題が、仕事でも演劇でもあるいは生活でも、同様に深く根ざしてわれわれの目の前に横たわって道を塞いでいるからだ。
 そして、このさらに先に「デザイン」と「サービス」が見えてきているのだけれど、それもまた後日にしよう。

●まだ風邪も治っていない。

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知の喜び(ヴァナキュラーへの出会い)

131101

●昨日、根っこがアスファルトを押し上げるのを見つけていた。しかもその木の周りに結構なゴミが落ちていて、呼吸ができない感じだった。そういうモノを全部押しのけて生きようとする力の強さがそこにあった。

●ふとTwitter上で出会った「ヴァナキュラー」という概念。
 標準化と職人技術の問題は実はずっと前から考えていて、うまいこと言葉にできないままだった。しばらくそれを放置しながら、同時に仕事においては特に「なぜ標準化をしなければならないか」、一方で近代に抗おうとする単純な反動のような抵抗は感じていて、自分の中で整理ができないままだった。そのタイミングで出会ったこの言葉だ。
●建築からだけれど、ここを参照するとよくわかる。
 「ヴァナキュラーから建築を考える(バーナード・ルドフスキー『驚異の工匠たち』書評)
●大事なことは、「ヴァナキュラー≠伝統性・地域性」であるということ。とはいえ、明らかに近代へのカウンター・プロポーザルであり、以下のような対立構造はある(上記のリンク先から一部を抜粋)。

永続性 ←→ スクラップアンドビルド
魔術性、コスモロジー ←→ 脱魔術化、科学主義
非均質性 ←→ 均質空間
非視覚性 ←→ 視覚的、比例

●わたしが注目したのは、「魔術性」と「非均質性」だ。それは以前も書いた「代わりが効かない」ことにも通じる。
 たとえば、クォリティコントロール(QC)の前提は、まさにブラックボックスをなくし、標準化し、代替可能にすることだ。事実上、日本国内にあった仕事そのものを近隣諸国が代替できるようにすることだった。そうなれば、工場の空洞化は必然だ。自ら日本が「国際化・グローバル化」というその呪縛に強く巻き取られたことによるものだろう。
 だから、日本で仕事を残すにはその逆という発想も可能だ。

●しかしながらリンク参照先の最後の一文からもわかるように、このヴァナキュラーという概念は、単なる近代への反動ではない。そこを引用しよう。

ただ近代建築を否定するだけでは、ヴァナキュラー建築は批判と懐古主義にとどまり、現代的な社会性・創造性を獲得することはできない。「積木(=近代技術)」を「横領」し、工業化・商品化・環境問題・グローバリズムといった現代的要件を前提とすることが、「現代のヴァナキュラー」を考えるスタート地点になるだろう。

●現代においては、近代を反省しつつも、近代とも共に生きる多文化共生のなかでは、積木(=近代技術)的に仕事をしなきゃならない場面もある(むしろ多い)。そのなかでも「人」が「もの」にならないように。最終的には「主体性の回復」をどうしていくかが重要だ。
●それは仕事においても、演劇においても、わたしにとっては重要なテーマであり、このヴァナキュラーという概念を「近代の語り直し」の一つの方法として必ず参照しておこうと思ったゆえんだ。

●それにしても、そうやってあらゆる問題が、たったひとつの言葉でつながることそのものに知の喜びを感じたのだ。まだまだ知らないことは多いし、絶望するくらいになにもわからないけれど、それでも知りたいという欲求をもてることは本当に幸せなことでもある。可能性と希望がそこにあるから知りたいと思えるのだし、喜びにつながるのだろう。

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臨床的、代わりが効かないこと

●昨日書き切れなかった続きを書こう。鷲田清一さんのエッセイや哲学には徹底した深い眼差しがある。読んでその言葉に触れるたびに、どこかで感じたことがあるような気がしていた。
 特に鷲田さんの「臨床哲学」という概念がずっと好きだった。それを今回読んだ『語りきれないこと』の最後でかなり踏みこんで解説してくれている。

 臨床哲学は、<現場>というものをとりわけ大事にしています。予測できないことが絶えず起こる場所、コントロールが効かない空間が、現場というものです。
「理論研究、歴史研究をやってきた哲学者が現場に行ってどうするの?」と訊かれることがあります。しかし、臨床哲学は、まず哲学理論のようなものがあって、それを現場の具体的なケースに当てはめて考えるものではありません。現場では、たとえじぶんの理論を持っていても、それをいったん棚上げせざるを得ない。素人にならざるを得ない、そういう複雑な曲面に満ちています。理論を持っていたら、かえって邪魔になるようなところに、哲学をいっぺん置いてみる。そういう試みが臨床哲学がやろうとしてきたことです。(『語りきれないこと—危機と傷みの哲学』鷲田清一・著/角川oneテーマ21 より)

●この話だけでも充分にスリリングだ。状況としてはよく分かる。ただ、さらに「臨床哲学」を理解するために長くなるがここを引用したい。

 「哲学を汲み取る」という、哲学者・鶴見俊輔さんの言葉があります。『アメリカ哲学』という本のなかで、哲学者の研究すべきテキストは哲学書ではない、労働運動をしている人のメモ、学校の先生のメモ、子どものいたずら書き、ナースのメモ…そうした断片的に書き記されたものから哲学を汲みとることが、哲学者の大切な仕事なんだと書いています。(『語りきれないこと—危機と傷みの哲学』鷲田清一・著/角川oneテーマ21 より)

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●この感じ。太田省吾さんの演劇論や舞台の作り方から感じられる、あるいは、戯曲に書かれている人(俳優)への眼差しがまさにそれだった。

●演劇は「同じこと繰り返すもの」ではあるが、「量産可能な菓子パンを作るようなこと」には絶対にさせなかった演出家・太田省吾の姿勢はまだいくつかの演劇人に残されている。その俳優が生きてきた人生そのものが舞台に立ち現れるような作り方だ。
 一回性のものであること、目の前で行われるものであることを徹底的に考えている。
 コントロールが効かない、砂や水を舞台上で積極的に使い、「その」俳優が、代わりの効かない存在の仕方で、そこに生きることの圧倒的な存在感だ。だからそれはハプニングとは違う。

●人間の問題を書くために、わたしはまだ戯曲を書こうとしているのだということを、改めて再確認できた。当たり前ことばかりなのだけれど。
●臨床的な手つきは、普遍化させようというパッケージにこだわる必要などない、ということも伝えてくれている。一般的には気にした方がいいことを、わたしも気にしなければならない道理はなかった。何かを創り出していくというプロセスの中では。みんながみんなわかりやすいもの、受け入れられやすいモノを作る必要などない。なぜならそれは多くの人を集める手段だからだ。そうでなくてもよい。わたしからむしろ必要な人のところへ動けばいい。

●そして、改めて鷲田さんは言う。「外の病んで横たわっている人のところへ」、あるいは「問題発生の現場に出かけていく」という臨床のありようを。そして、その場で、現場だからこそ、内側からだからこそ言葉にならないものを言葉にして翻訳していく役割のことを。

●そんなふうになぞりながら、わたしができることとやれそうなことがようやく見えてきた。

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ゴドー追悼の秋から

130924

●やはりこちらにいると眠りが浅いようで、夢を見る。見たい夢も見られる。
●朝。14度ということだった。カーディガンを一枚羽織っていったが、それでも外に出ると寒い。日本も涼しいようだし、いよいよクールビズも終了かと、ビニールジャンパーのシャカシャカと擦れる音から知る。半袖の人がいて、パーカーとか、薄手のコートとか、Tシャツとかが交錯する。

●ふいにこれから寒くなることを考えると、あの大きな祭りが終わったあとであろう2021年1月の光景が目に浮かんできた。
●10年代という多幸感溢れる夏は何かを一生懸命に忘れるための、祭りなのだろうか。だからこそ20年代の秋のことを今から考えなければと思った。むしろそこで力を発揮できるようなサービスを、製品を、仕事で提供できるようになっていなければと考えたし、作品もそのときに見ても耐えられるものであるのか考えておかなければと思った。
 2020年の夏が終わり、10月になると、わたしは44歳だった。
 そんな未来について考えていると、こんな言葉に出会う。
 自分にとって心地よい言葉に浸るところから一度出て、今まで避けていた人の言葉を聞いたりしていると、そこにはまた別の光景が広がっている。そこにまた新しい発見がある。


◎わたしは追憶の中で生きているのか。ゴドーに線香をあげ続けているのだろうか。盛り上がりも終焉もない、その瞬間のなかで永遠に生き続けること。
●そんなことを考えたこともなかった。単純にわたしはもう二度と来ないゴドーを追悼していただけだったとしたら、それもまた虚しい人生ではないだろうか。

●こんな時は思いっきり道に迷う。迷いながら進む。それは結構慣れている。いつもそんなふうに書いているし、みずからが揺らぐことからようやく何かが思いがけず発見できると考えている。そうやってしか出会いたいものに出会えない。目的通りにばかり動いてたまるか。
 よし。今日も少しずつでも書き進めよう。ゴドーを追悼するためでも、待つためでもないものを。

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ワン・オブ・ゼム/<ひと>の現象学より

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●この回は長かった。そして、話の内容は多岐に渡る。一昨日一度じっくり読んで、また昨日まとめながら読み、今日また移動しながら読んで、読み返す度に気付くことがあるということは、数回の読みでは拾えていないということだ。
 わたしの詳細になりすぎた読書ノートのまとめはEvernote内に入れておくけれど、ただ、今回のこのテーマは最もわたしの関心の高い「多様性」についてである。これを重要なポイントだけまとめあげるのはむずかしい。

●ここで語られるのは、現在、あらゆる場面において圧倒的な力を持つ「多様性」というイデオロギーをどう捉え直すかというのが一つ。
 それに関連する形で、「相対主義」「反相対主義」をどう考えるか。「反ー反相対主義」の観点から。
 三つ目はここまで何度も繰り返し続いている近代プロジェクトの流れから考えたところの「人格の多様性」あるいは、相対主義の流れで「異に触れるとはなにか」ということについてだ。

●このブログでは、このなかの最後の三つ目の部分だけに注力してまとめたい。

●わたしは昨日書いた日記はあきらかにここを読んだ影響を受けている。しかし、まだこの時点では勘違いしていた。本書ではこういう書かれ方をしている。

「わたしたちは他の人たちの生をじぶんたち自身が磨いたレンズを通して見るのであるし、他の人たちもわたしたちの生を彼ら自身が磨いたレンズを通して見る。」

◎問題はこの先、この見方をどういう捉えるかということだ。それには二つある。

◎ひとつめは「異なる文化に属する人びとは異なる世界に住む」、だから「しょせん、じぶんたち自身が磨いたレンズを通してしか見られないし、他の人たちもついにわたしたちの生を彼ら自身が磨いたレンズを通してしか見られない」とする行き止まりの考え方。
 他者を理解することを、他者とおなじ考え、おなじ気持ちになることだと思ってしまいがち。しかし、これは、他の言語を自言語に置き換えてゆくなかで、他言語を次第に習得するプロセスとおなじであり、「同郷人、同国人、おなじ言語を話す人、おなじ宗派の人…といったふうに地球市民にまで拡げられ、そしてそういう<同化>の延長線上で「人類」という考えに到達する」という「異人が異人でなくなっていく」過程そのものだ。

●わたしもまさにこの罠にはまっていた。昨日の書き方もそうだ。ではどういうことか。もう一方はつまり<同化>ではないということになる。少し引用しよう。

 他者を理解するといういとなみは、他者とのあいだに何か共有できることがらを見いだすというかたちで拡張されてゆくものではなく、他者にふれればふれるほどその異なりを思い知らされる、つまりは細部において差異が、それぞれの特異性が、際立ってくると言うことの経験を反復することから始まるということだ。

◎もう一方の捉え方は、まさに差異を、特異性を、むしろどんどん知っていくことという考え方だ。
 しかし、だとしたら、他者との相互理解は可能なのか。「他者同士は交わることはないのか?他者とたがいに浸食しあうという出来事はないのか?」ということになる。
 それについて鷲田氏はこう言っている。

 「他の人たち」、他の言語文化に接触することで、じぶんのレンズの屈折率がかえられてしまうということもふつうに起こりうる(中略)レンズにはさまざまの偏差が刻印されているのであって、この偏差は他との遭遇によってさらにさまざまの偏差を呼び込む。複雑に増殖してゆくその偏差の総体をなにかある「特性」として括り上げることはできない。わたしたちが「日本人」と言われても、「男」あるいは「女」と言われても、「大人」あるいは「子ども」と言われても、どうしてもそうした括りがしっくりこず、どこかそれをはみだす、あるいはそれからずれていると意識してしまう。

◎人格の話も、一人の人間が一つの人格を持っているように(周囲からの期待や拘束などから)そう見えるだけで、あくまでもそのつど統合されているに過ぎない。
 「人格はつねにその偏差を生み、またそれを組み換える不断のプロセスのなかにある。」偏差の中で、ズレを生み、引き裂かれ、あるいは部分は欄外に溢れる。

●あなたがわたしになること、わたしがあなたになること(同化)ばかりを考えていた。つまり、自己の投影、他者の中に自己を見ることばかりを考えてしまった。
 境界が曖昧になってそれが溶けていく状況、まさにそのことを書きたいと考えていた。しかし、どうやらそれだけではもう一歩足りないこともわかってきた。
●つまり、同化ではなく、その「わたし」という存在そのものが「他」や「異」に触れることで、常に変化することで存在するわけだ。ある一つの役割の中にずっと居続けること息苦しさはここにもある。いくつもの役割の中をゆるやかに変化しながら、その都度「何か」になる。
 そうして、「わたし」はある意味では、近代の枠の要望に応えつつ「わたし」ではないまた別の「わたし」へとなるのだ。わずかなズレを繰り返しながら。

●かなりはしょったはずだったが、やっぱり長くなった。しかし、この二ヶ月間「わたし」がずっと悩んできたことの答えの一つはここにあった。ようやくここまできた。

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便利にすることの理由

130220

●便利なものが登場したことによって失われたものについてここしばらくずっと考えてきた。
 それを代表するのはいわゆる戦後日本の三種の神器「白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫」から高度経済成長期にはいわゆる3C「カラーテレビ・クーラー・カー(車)」に。2000年代には「デジカメ・DVDレコーダー・薄型テレビ」と一般的に言われている。

●中国では文革から短いスパンで急激な高度成長を遂げた。日本のようにゆったりと三種の神器が変遷したわけではない。10年前わたしが駐在していた頃から、パソコンと車が一気に来たのだし、車を持つ人びともますます増える一方だ。
 それは第二次産業による高度成長と、いわゆる「IT革命」が同時にやってきたようなものだ。
●しかし、それとは別に彼らは旧正月にはまだ家族のために苦労して長距離を移動して田舎に帰り、家族を大事にしようという習慣が残っている。

●そういう意味でもっとも大きな差はやはりコンビニなのだと思った。コンビニが日本の家族を解体させた、と改めて思う。

●とはいえ、コンビニを代表する便利なものをわたしたちはここにすべて置いて前近代的な生活に戻ることはできない。
 これからもまだまだ便利になり、」「動かなくて良くなるし、考えなくて良くなる」だろうし、「一人で生きていける」ようになるだろう。

●そんななか、敢えて「動く」「考える」「誰かと共生する」ことと、数々の「面倒」を受け入れることが、「消費」とは別の次元でわたしたちが社会の中に存在することの意味を与えてくれる。

●同時にまだ便利にするための方法を散々考えて仕事している。
 どうやったら入力が減るか、どうやったら移動の歩数が減るか、どうやったらシステムはより完全になるか、どうやったらより無駄なく正確にできるか。どうやったら楽にできるか。
●わたしはわたしでBluetoothでテレビの音をどうやって同時に少し離れたキッチンでも鳴らせるか、そんな装置を探したりしている。
 または、どういう仕事場のレイアウトがベストだろうかと考える。楽にするために。

●なんのために楽にするのかわからなくなりながら。