
●この回は長かった。そして、話の内容は多岐に渡る。一昨日一度じっくり読んで、また昨日まとめながら読み、今日また移動しながら読んで、読み返す度に気付くことがあるということは、数回の読みでは拾えていないということだ。
わたしの詳細になりすぎた読書ノートのまとめはEvernote内に入れておくけれど、ただ、今回のこのテーマは最もわたしの関心の高い「多様性」についてである。これを重要なポイントだけまとめあげるのはむずかしい。
●ここで語られるのは、現在、あらゆる場面において圧倒的な力を持つ「多様性」というイデオロギーをどう捉え直すかというのが一つ。
それに関連する形で、「相対主義」「反相対主義」をどう考えるか。「反ー反相対主義」の観点から。
三つ目はここまで何度も繰り返し続いている近代プロジェクトの流れから考えたところの「人格の多様性」あるいは、相対主義の流れで「異に触れるとはなにか」ということについてだ。
●このブログでは、このなかの最後の三つ目の部分だけに注力してまとめたい。
●わたしは昨日書いた日記はあきらかにここを読んだ影響を受けている。しかし、まだこの時点では勘違いしていた。本書ではこういう書かれ方をしている。
「わたしたちは他の人たちの生をじぶんたち自身が磨いたレンズを通して見るのであるし、他の人たちもわたしたちの生を彼ら自身が磨いたレンズを通して見る。」
◎問題はこの先、この見方をどういう捉えるかということだ。それには二つある。
◎ひとつめは「異なる文化に属する人びとは異なる世界に住む」、だから「しょせん、じぶんたち自身が磨いたレンズを通してしか見られないし、他の人たちもついにわたしたちの生を彼ら自身が磨いたレンズを通してしか見られない」とする行き止まりの考え方。
他者を理解することを、他者とおなじ考え、おなじ気持ちになることだと思ってしまいがち。しかし、これは、他の言語を自言語に置き換えてゆくなかで、他言語を次第に習得するプロセスとおなじであり、「同郷人、同国人、おなじ言語を話す人、おなじ宗派の人…といったふうに地球市民にまで拡げられ、そしてそういう<同化>の延長線上で「人類」という考えに到達する」という「異人が異人でなくなっていく」過程そのものだ。
●わたしもまさにこの罠にはまっていた。昨日の書き方もそうだ。ではどういうことか。もう一方はつまり<同化>ではないということになる。少し引用しよう。
他者を理解するといういとなみは、他者とのあいだに何か共有できることがらを見いだすというかたちで拡張されてゆくものではなく、他者にふれればふれるほどその異なりを思い知らされる、つまりは細部において差異が、それぞれの特異性が、際立ってくると言うことの経験を反復することから始まるということだ。
◎もう一方の捉え方は、まさに差異を、特異性を、むしろどんどん知っていくことという考え方だ。
しかし、だとしたら、他者との相互理解は可能なのか。「他者同士は交わることはないのか?他者とたがいに浸食しあうという出来事はないのか?」ということになる。
それについて鷲田氏はこう言っている。
「他の人たち」、他の言語文化に接触することで、じぶんのレンズの屈折率がかえられてしまうということもふつうに起こりうる(中略)レンズにはさまざまの偏差が刻印されているのであって、この偏差は他との遭遇によってさらにさまざまの偏差を呼び込む。複雑に増殖してゆくその偏差の総体をなにかある「特性」として括り上げることはできない。わたしたちが「日本人」と言われても、「男」あるいは「女」と言われても、「大人」あるいは「子ども」と言われても、どうしてもそうした括りがしっくりこず、どこかそれをはみだす、あるいはそれからずれていると意識してしまう。
◎人格の話も、一人の人間が一つの人格を持っているように(周囲からの期待や拘束などから)そう見えるだけで、あくまでもそのつど統合されているに過ぎない。
「人格はつねにその偏差を生み、またそれを組み換える不断のプロセスのなかにある。」偏差の中で、ズレを生み、引き裂かれ、あるいは部分は欄外に溢れる。
●あなたがわたしになること、わたしがあなたになること(同化)ばかりを考えていた。つまり、自己の投影、他者の中に自己を見ることばかりを考えてしまった。
境界が曖昧になってそれが溶けていく状況、まさにそのことを書きたいと考えていた。しかし、どうやらそれだけではもう一歩足りないこともわかってきた。
●つまり、同化ではなく、その「わたし」という存在そのものが「他」や「異」に触れることで、常に変化することで存在するわけだ。ある一つの役割の中にずっと居続けること息苦しさはここにもある。いくつもの役割の中をゆるやかに変化しながら、その都度「何か」になる。
そうして、「わたし」はある意味では、近代の枠の要望に応えつつ「わたし」ではないまた別の「わたし」へとなるのだ。わずかなズレを繰り返しながら。
●かなりはしょったはずだったが、やっぱり長くなった。しかし、この二ヶ月間「わたし」がずっと悩んできたことの答えの一つはここにあった。ようやくここまできた。