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河合隼雄

中心を外さずに、そこにいる


●Twitterではすでに書いたが、この本を読んだ。こころと脳の対話 (新潮文庫)
。河合先生の臨床心理へのアプローチや、ユング研究所のことなどがわかるだけでなく、高校の保健体育で「心はどこにある?」という問題の答えが「脳」だった時の腑に落ち無さを覆してくれた。心=脳ではない。改めてそのことを確認出来ただけでもうれしい。そして、過去の臨床体験が語られた中での話も非常に感動的だった。
 あるいは、黒船ペリーの弟の孫ジョン・ペリーさんの話も感動した。統合失調症の人にどう向き合うか。どう治していくか…。

相手がきたとき、いつも端にいる。ずっと端にいるんだけれど、「中心を外さずに」そこにいる。それができれば、その人は治ると。

『こころと脳の対話』(新潮文庫) P153
●中心を外さずに、そこにいる。いい言葉。

『国境の南、太陽の西』読了

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●今日は昨日とはまたうって変わって晴天。ただ風は涼しい。秋の風。日差しはまだ夏のままだ。もう一度簡単な洗濯物を回して干してから、外に出る。海辺に向かって歩く。今日は先月と比べるとだいぶ海が満ちていた。しばらく日陰でぼんやりしていたが、やはりそこでしばらくぼんやりしていた海辺の家族の赤ちゃん(お母さん曰く5ヶ月)をあやしたりして、また街に戻る。その途中、右の3つの写真の猫たちに会う。いや、実際にはあと2匹会っているが、写真を撮れなかった。開発区も随分猫が増えた。
 その後、ゲームセンターに行って時間とお金を使い、特別これといった満足感もないまま、近くで珈琲を一杯飲んでそのまま帰る。だいぶ日に当たったせいか、軽く頭痛の兆し。
●で、家に帰って『国境の南、太陽の西』を読了。Wikipediaによれば『ねじまき鳥クロニクル』の第一章の第1稿を推敲する際に削った部分を基にしてできた作品らしいが、その片鱗らしき者は前半に感じられていた。ただまた別の「物語」である。あと、これは中国語に翻訳されたものも購入してあった。ああ、そうだよ、せめてそれをもってくればよかった。そしたら同時に読み進めることができた。
●いずれにせよ、あと未読の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と『ダンスダンスダンス』は読み終えてしまおう。ただ、『ダンスダンスダンス』を読む前に、「羊三部作」も読み返したい。これらを読んだのも浪人時代の18の時だ。当時大宮で一人暮らしをはじめたわたしは『1973年のピンボール』に触発され、しばらく大宮のゲームセンターのピンボールを一人黙々とやっていた。もうかなり前のことのようにも感じられる。
 そして、そのあと『1Q84』である。今年はそんなわけで世の中と同じく村上春樹ブーム。どの長編のタイトルを見ても、その世界に引きずり込まれるように思い出すことができる。あと、河合隼雄氏との対談の文庫『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』もあった。それを再読したい。また考えるべき何かそこにあるような気がする。

参った

●夜、NHK『爆問学問』を見る。書けるようなことはそれくらい。ただ、今日はある意味では非常に参ったことになっていた中で、ある種のヒントをもらったような気もするのだった。
●毎月のように大連に渡る中で、いや、あるいは向こうで本格的に仕事というものをはじめたときから感じていたことだけれど、経済の側面から考えた時に、ある意味では市場という意味でも工場という意味でも、ただ物を作って売ればいいという時代はとっくに終わってしまったニホンがここにある。そんな中で、彼等が日本再生もしくは、経済的な生き残りなどをかんがえていたかどうかわからないが、いずれにしてもキーフレーズ、テーマとなるのは日本文化、あるいはそれを培ってきた日本人的融合精神的なるものを拠り所にしていたのは興味深かった。
●つまり、その部分を真剣に考えて行くことがあらゆる局面で重要なヒントになる気がしてならない。それは、永遠の師ともいうべき故河合隼雄先生が1960年代からすでに「中空構造」として発表し続けてきたことでもある。議論はその域を未だに超えていないのではないか。ということも考えつつある。さらにその先のこととなると創造作業が必要になる。誰もがまだ見ぬ世界が待っている。まずはそのことを楽しもう。そしてわずかな変化をヒントに、また創造を前に進めてみようと思うのだった。

現象学的接近法

●以前から書いている河合隼雄先生の『カウンセリングと人間性』を読んでいる。寝る前に少しずつ。面白いので、つい興奮して眠れなくなる。そんな毎日。
 この本の山場ともいうべき箇所「カウンセラーの態度ー現象学的接近法の問題」は非常に考えさせられる。今後のためにも自分なりにまとめておこうと思う。
●「とらわれない態度」で事象を見ることの困難さについては、ただの素直に感じたままということではないということだ。たいていの場合、常識や個人的感情にとらわれてしまう。
 理論的な枠組みを持ちつつ、しかもそれにとらわれないという二律背反的な訓練を経ることでようやく現象学的接近法は身に付くということだが、これは演劇にも仕事にも同様に言えることだ。
●この「百の目、千の事象」もまたこの「現象学的接近法」の訓練のための場だということでまた考えていこうと思ったのだった。

適応ということ

●先日亡くなった河合さんの本『カウンセリングと人間性』を少しずつ噛みしめるように読んでいる。
 人間がその状況に適応するということについて書かれている。
 「適応」のなかにも「消極的適応」と「積極的適応」があるという話題は非常にわたしのなかではタイムリーな話で、いや、河合さんの言葉だからこそものすごくすんなり入ってくる。
 そして、一文一文が考えさせられる。反省を促される。いま、自分に何が出来るか。見学者では何が出来るだろうか。
 経済の社会から溢れてしまったり、あるいはそこにはない別の何かを求める者たちにとって必要なものを創出することは出来るだろうか。
 社会と見学者との適応もまた大きな一つの課題である

河合隼雄さん死去

●ついに亡くなられてしまった。太田さんの死から一週間も経たぬ間に、演劇を志す前にカウンセラーになろうとわたしに思わせてくれたうえ、結局その志は大学受験で崩れたものの、演劇にもあるいは仕事でも、すべての面でわたしの支えになっていた人だった。
 話を聴くこと。そこにある声に耳を傾けること。
 何があってもその心だけは引き継いでいきたい。そして、「全力をあげて何もしない」というわたしの座右の銘も、河合さんの言葉だ。
 わたしの中の大きな3本柱のうちの2本だった人たちがこの1週間の間に亡くなってしまうなんてことがあっていいのだろうか。
 ご冥福をお祈りいたしております。

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臨床哲学

●昨日の話とも繋がってくるが、最近は『臨床とことば』を読み直している。
●臨床心理学者の河合隼雄氏と臨床哲学を提唱する鷲田清一氏の対談。
 臨床哲学は個別ということにこだわりつづけ、個別の足し算ではなく、個別という一例を深めることで普遍的な場に出る。臨床心理学でいうところの事例研究。理論のことは勉強しても、ディスカッションなどの席では一切使わない。
 こういう話が今のわたしには必要で、頷くことばかりだ。
●日本の倫理基準についても、最終的には美的判断ではないかということ。
 「嘘をついてはいけない」という倫理・道徳ではなく、その場面で「嘘をつくこと」が美しいか、美しくないか。
●そして、それらはきっと作品作りにも通じることであり、彫刻家のジャコメッティは「一人の人を描き切って、描き切ったら、なぜかその顔は、誰の顔でもあるように見える」という。
 この言葉から、敢えて抽象的な言葉で普遍性を語ろうとせずとも、別のルートがあることを改めて再認識できた。
 ここからおそらく次の作品も見えてくるのではないかと思っている。

稽古42日目/あいまいさの許容範囲

●仕事を終えてすぐに稽古場へ。今日は茗荷谷なのですぐに到着。

●昨日、ちょっと演出と話し合っていて、みんなのやりたいことを聞いておこうということになり、少しずつ話を聴く。
 まあ、たぶん、話してと言われて話せることは100分の1くらいなのかもしれないけれど、それでもその100分の1が大事なのではないかと思うのだ。
 それもまた一つの成長。前回の稽古期間では怠ってしまったことだ。
 その後、ラスト前に前半の立ち方をもう一度考え直しはじめたのも、演出の方法論を昨日の休みでずっと考えていたからで倉光自身のなかでももだいぶ整理されてきたように思うが、いかんせんまだ「曖昧」な部分も多いので、伝えるのは難しい。そもそも人に何かを伝えるのは何て難しいんだろうということだ。
●それで『あいまいの知』を開く。
 巻末にある河合さんと中沢新一さんの対談で、河合氏がこう話している。
 「まずやるべきこととかすることがあって、それを理論的に考えたい人は、もういっぺんその基礎を考えていって、できるだけ明らかにしようとするし、または応用面でそれを進歩させる人はさせていく。そう思ってみていると人間の生き方はみんなそうなんですね。確かにみんな自分の生き方にバックボーンを持っている。自分にとっては勇気が大切なんだと考えても、勇気の定義を聞くとまたわからなくなる。しかし、わからなくても、あいまいだからだめかというと、そうじゃないんですね。その人が勇気というバックボーンを持っていることが、案外その人を支えている。
 人間と人間の関係は、近代科学で考えるような明確さを追究していってもほとんど意味をもたない。ある面では明確になってくるかもわからないけれども、その概念や出てきたものは、実際の人間が生きていくことには役に立たないのです。」
 一方でこうも言っている。
 「しかし、曖昧だからいいと言うことは決していえなくて、なぜこれはあいまいさをもつのか、どういう程度にもっているのか、そういうことをあいまいであるけれども、できるかぎり明確にすることはしていかないと、あいまいさゆえに出てくる結果があまりにあいまいになってくるのはおかしい。」
 この作業はまさに稽古の過程の中でも同様に必要になるだろう。そういう意味で、「あいまいだからいいんじゃないか」というような逃げのための「あいまいさ」はむしろ本当のあいまいの知ではない。
●そんなわけで、今日中に書き上がるかと思った戯曲は、あと3ページか4ページくらいだろうか。
 いくつか決着のついていない問題があって、それを演出とも話し合いながら、最終決定する。
 何とか明日の昼までに書き上げよう。

稽古36日目

●稽古は茗荷谷だったので、仕事終了後、急いで稽古場へ。

●昨日少しだけ進んだ40ページを渡す。
 そして、昨日の稽古で見られなかったシーンなどは新鮮だ。しかし、既になおさなければならない台詞などがいくつか気になる。いや、まずは前に進むことにするが。
●とにかくこのあとはいかに主語的世界(支配的言語)によらないか、述語的世界(あるいは普遍的無意識の世界)へどのように降りていくかだ。
 すでに神話を組み込む形で「神話的志向」には向かっているが、ここを述語的世界に繋げるのが重要な課題。
 何のことだか。いや、つまり、「わたしが」から始まる世界ではなく、「いる/ある」から始まる世界。すでにそのベースは今までの稽古の中でも自ずと出てきてはいる。
●そういえば、河合隼雄氏が文化庁長官を退任されたそうだ。もう去年の11月の緊急入院から休職されていたということだから、致し方ないことだが、お疲れ様でしたという気持ちで、また数冊の本を注文。
 『日本の精神性と宗教』『神話の心理学』の2冊。

個人的な神話を作るということ

●今日も二つの日記にわけて。
 昨日からの課題だった『神話と日本人の心』(河合隼雄・著/岩波書店)を読んでいるのだが、いくつかの場面で太田省吾氏の演劇論と通じるところがあるのが興味深い。
 思えば、太田さんも世田谷のセミナーで河合さんのことを引用していたような気もする。

●この本のなかでジョーゼフ・キャンベルの言葉から「これから長い長いあいだ、私たちは神話を持つことができません。物事は神話化されるにはあまりにも早く変化しすぎているので。」と引用し、さらにこう続けている。「各個人が自分の生活に関わりのある神話的な様相を見つけていく必要があります。」
 これに関して河合氏も「個人の自由は拡大したが、それに伴って、個人の責任が重くなるのも当然である。個人の責務のひとつとして、「自分の生活に関わりのある神話的な様相を見つけていく」ことがあるのを自覚しなくてはならない。それを怠っていると、途方もない不幸に陥ったり、不安に襲われたり、他人に対して迷惑をかけたりすることになる。言うなれば、各人は自分にふさわしい「個人神話」を見出さねばならないのである。」
●つまり、「科学の知」に先行された現代の中で、いかに「神話的な様相を見つけ」ることができるか。それが演劇というメディアに当てはまる。そこで「神話の知」をいかにして現代によみがえらせることができるのか。
 「科学の知」は支配・コントロールしようとする。これに対して、「神話の知」や「あいまいの知」は、本来日本人が優れた部分として持っているはずだ。
 もちろん、「科学の知」の発展ぶりはめざましく、わたしも圧倒的にコンピュータの前に座っている時間が長いし、それなしでは生きていけないほどだ。だからこそ、「神話の知」を見直す必要がある。それは演劇だからこそできることだと思う。

●『影の現象学』を少しずつ読んでいる。

●河合隼雄氏の著作だが、ニュースによると現在入院中で文化庁長官の職も本日までということになってしまったようだ。

●影の現象学
だが、人間の「闇」にあたる部分、これを受け入れ生きることのヒントが書かれている。
 特に(家族を含めた)他者に自らの影を投影させてしまうケースについては考えさせられる。
●わたしにとって、執筆の大きな手助けになる著作が多い河合氏の本だ。
 今回の戯曲の中でもすでに「影」のような存在になっている人物がその表出の違いこそあれ何人かいるわけで、大いに参考になる。
●そして、10月も終わった。いよいよ残すところ4ヶ月ちょっと。戯曲を書かなければ。

河合隼雄長官が倒れる

●それは昨日のことだった。asahi.com:河合隼雄文化庁長官、倒れる。そして、今日もまだ意識は戻っていないという。NEWS@nifty:河合隼雄氏は依然重体、主治医が会見(読売新聞)。

●簡単にこんなことを言うのは嫌なのだが、ぜひ、何とかなって欲しい。他人に対してこんな気持ちになったのは初めてだ。まだ聞かなければならない言葉があるような気がする。
 もう10年以上前から随分と支えられてきたようにも思う。
■わたしの演劇に対する考え方の根底にも、河合さんの多くの考えでできていると言っても過言ではない。

猫はどこに行くのか

  • 2006-08-09 (水)

●口の中が荒れている。なんでだろう。

●『トリビアの泉』で「ネコが自分の死を悟ると身を隠すというのはガセ」とネタにしていたが、そんなことは当たり前だ。事実としては、確かに自分の危険性を感じ、安全な場所へ身を守ろうとしてどこかへいくということかもしれない、事実として違うことはどうだっていい。むしろ注目すべきはそうした民間伝承が、日本の中に定着し、それが広まったことにある。
 猫に関する伝承や伝説は数多く、不思議な生物として人間に捉えられてきたこと。


 
 また、人間と猫との関係を考えるには、この本がちょっとオススメである。

●群馬から演劇関連の資料をいくつか持ち帰る。

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■倉光仁美・妻・つまん
 見学者の演出担当であり、妻でもある。
■むすこん
 息子のこと。ネット上の相性。(この流れでわたしも「おっとん」と名乗るようになる)
■ロム
 大連駐在時に日本料理屋のウェイトレス張さんにもらった猫
■ハム
 ロムとその日本料理屋で飼われていたアサヒ(オス・現在北海道にいると思われる)との間に生まれた娘猫。

■歩く会
 都内を中心に歩く会。

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