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台本・戯曲 Archive

土地と創造

●今日は一日、東京。いつもより早く家を出て、茗荷谷へ向かう。
 数ヶ月前まで住んでいた場所だが、歩いていて思ったのは、あの場所で作られた『雲の溜まる休日2006』及び『次の出発』は、茗荷谷という土地がなければあの形にはならなかったかもしれないということだ。
 年齢や経験による作品の変化は当然のこととしても、そこに土地の力があるかどうか、つまり、あまり演劇とは縁遠い土地であったことが却ってよかったのではないか、と思えてきた。
 歩いていたら、なぜかそう感じたのだった。
●つまり、埼玉の北の外れの熊谷で作られるものは、またこの土地が大きく影響するはずだ。
●そんな熊谷も「うちわ祭り」。東京から戻ると、すでに始まっていた。山車が通るので、交通規制。”,”土地と創造”,0,,publish,open,closed,,%e5%9c%9f%e5%9c%b0%e3%81%a8%

新たな方法へ

●そろそろ疲れが出てきた。
●ひとり劇作ワークショップもなかなかできぬまま、DVDの制作も進まぬまま、平日がどんどん過ぎていく。今週末がとりあえず狙い目だ。
●しかし、劇作ワークショップもまだ諦めてはいない。何しろ訓練が必要だ。日々の訓練。そんなわけで、短編の古典小説を読んでいる。ちょっと戯曲化するイメージのできないものを、どんな荒技であろうとも戯曲に変える方法を考えていた。

ひとり劇作ワークショップ

●というものを思いついた。車に乗っていたら。
 思いついた途端、やることが増えたにもかかわらず、ゆとりのなかった心にもゆとりが出てくるから不思議だ。
●とにかく、見学者のワークショップもそうだったが、基本的には訓練だ。発想もそうだけれど、戯曲の構造化や脱構築もまた訓練によって、培われる以外にはない。
●そんなわけで、劇作ワークショップだ。夜、一人で黙々と行うことにする。週に最低2回。短編の小説などを戯曲化したり、既存の戯曲をバラバラに解体して組み替えたり、小説でないものを戯曲化したりもできるだろう。
 ただ、モチベーションを保つためには公開することも検討したいが、どうしたって著作権の問題がそこには出てくるはずで、だから、青空文庫などに掲載されている著作権の切れたものや、あるイメージ(絵や音)を言葉に変えることであれば大丈夫だろうか。
●あるいは、映像ワークショップもいい。とにかく今は訓練あるのみだ。

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「眺め」と「半眼」

●一行も書けなかった。
 何だろう、このモヤモヤ感は。ここまではわりと順調だったのだが、残りの大きな山場に差し掛かってどうにも駄目になる。

●まあ、それでいろんな人の言葉に耳を傾けていた。
●たとえば、創造性を生む「半眼」の境地 (茂木健一郎の「超一流の仕事脳」):NBonline(日経ビジネス オンライン)は、まさにピタリと来た。
 以前書いたFreeMindというマインドパップのソフトも、KJ法のようなものだが、他人と共有する為には必要だが、戯曲執筆のやはり核はいくらやっても出てこない。それはそうだ。ここから一番の山場を迎えるに当たって、課題は無意識。無意識を意識すればするほど、無意識から遠のくのは当然の話で、いっそのこと山に籠もりたい気分だ。
●あと、昨日購入した河合隼雄氏の本に井筒俊彦氏の『意識と本質』(岩波文庫)を引用しながら存在について触れている部分など。昨日の述語的世界の話(これは演出家・太田省吾氏のセミナーで耳にした言葉だったわけだが)について、「花が存在している」のではなく、「存在が花している」というのは、非常にうまく述語的世界を言いあらわしているように思う。
 で、どこかで読んだことのある話だと思ったら、『意識と本質』そのものが読みかけだったことに気付いた。
●それで、引っ張り出してパラパラとページをめくってみる。だが、その部分は見つからない。
 ただ、驚くべきことにというか、おそらくすでにどこかで一周して回ってきていると思うのだが、「眺め」の姿勢についてここにも書かれていた。
 「眺め」には「性的にぼんやりしている」気分という意味が揺曳していることはいなめない。だが、『新古今』的幽玄追究の雰囲気のさなかで完全に展開しきった形においては、「眺め」の意識とは、むしろ事物の「本質」的規定性を朦朧化して、そこに現成する茫漠たる情趣空間のなかに存在の深みを感得しようとする意識主体的態度ではなかったろうか。
 (中略)
 この「眺め」の焦点をぼかした視線の先で、事物はその「本質」的限定を越える。
 「眺め」は一種独特な存在体験、世界にたいする意識の一種独特な関わりである。

●存在と日本をテーマに考えてきているわけだが、「日本書紀」「古事記」からの「神話の知」が「普遍的無意識」へと繋がり、「眺める」姿勢に繋がる。分けて分かるのではなく、繋がってわかっていく。
 しかし、まだビジュアル化するには早い。そうした連鎖の思考をもう少し「半眼」の状態で、意識・無意識へと眺めることが重要だ。

トンネルは長いシーン8へ

●起きてすぐ、家を出て戯曲執筆のために籠もるつもりだった。そのつもりだったのだが、夢の中でもずっと考えていたせいか、はたまた猫たちに無理矢理起こされたせいか、どうもあたまがすっきりしない。

●初動に勢いを付けるためにも、二時間のWOWOWで録画した『12人の優しい日本人』を観ていたのだが、見終わるのに4時間かかっている。あいだ二時間寝ていて、また巻き戻したからだけど。
 非常に面白かったのだけれど、今回の舞台とは作風があまりにも違うものなので、勢いはつかず。
●で、家を出てマクドナルド→まだ休み中の会社など点々としながら、据わりのいい場所を探す。結局、終電まで籠もったのだが、成果は少なかった。
 もう少し粘りたかったが、同時にチラシも入稿しなければならないし、そのまとめやら、今後の稽古で意味をもって来るであろうサブテキストの準備(倉光担当)やらで新年早々、なかなかどうして忙しない。
●年末を少しダラリと過ごしすぎたとやや反省。

説明台詞

●昨日はせっかく早く寝たのに、夜中に外で野良猫がギャーギャーと騒いでいて、二時頃に目が覚める。30分ほどしておさまったので、また熟睡。
 ともあれ、睡眠は大事だ。

●群馬から東京に戻り、仕事。仕事後に、台本を書く。2ページを一気に書いたらやはり筆が荒れた。
 普通に説明が多い。駄目だ。なんでこんなにつまらないせりふを書いてしまったんだろうと後悔する。こんなせりふを喋らせるのは、俳優に申し訳ないので、まだ練り直そう。
 あと、年内に台本をすべて渡すことができないので、キャストがほぼ全員揃ったところだし、後半は練り直したプロットの精度を高め、全員に配布し、理解を深めてもらうようにしたい。やはり全体像が見えないと不安も大きいだろうし。

わけないこと

●風邪が治らない。

●会社の社内LANでは、MacからWindowsXPにVNCで接続し、全画面表示にすると、PowerBookでWindowsが起動しているのと同じ状態だ。
 現在のIntelMacなら、AppleのBootCampでWindowsを直接インストールすることもできるし、Parallels Desktop for Macを利用すれば、同時にMacOSXとWindowsをエミュレートすることも可能だが、そうした状況は果たしてどれくらい自分に必要なものなのか、シミュレーションすることができた。
 「マック」と「ワーク」を分けないことが、今後新しい可能性を感じさせてくれる。
●で、夜に、吾輩は主婦であるDVD-BOX 下巻「たかし」が届く。特典映像をまとめてみる。
 そのなかの宮藤官九郎インタビューで、「清水圭」からの手紙という小ネタとも思われることのために、物語を紡いでいくという発想にものすごく頷く。ここにも、小ネタと本道を「わけない」という発想が新たなものを作り出していると思うのだ。

ベケットを読む『ある夜ー老いた大地よ』ー『また終わるために』より

●生誕100年期年として「ベケットを読む」という企画が、シアタートラムで行われており、太田省吾氏演出の「『ある夜ー老いた大地よ』ー『また終わるために』より」のリーディングと言っていいのだろうか。まあ、「リーディング」と銘打ってあるわけだが、リーディングという印象はほとんどなかった。太田省吾氏のしっかりと演出した作品に仕上がっていたように感じられたし、それが非常に嬉しかった。

●リーディング公演のあとに本日は二つのレクチャー。一つは小説家の保坂和志による「ベケットとその周縁、あるいはその解釈について」(これはわたしなりに勝手に付けたタイトルだが)。
 これが何と言っても衝撃的だった。わたしにとっては、まず、小説家の小島信夫氏が本日亡くなったことについても、あまりわたしは小島氏のいい読者ではなかったが(というか全く読んでいないのだが)、保坂氏によれば、「ベケット・カフカ・小島信夫」は似ているということを仰っていて、これも何かの縁だと思い、読んでみたくなった。
 そして、ここでさらにハイデガーの名前が出てきたのも、そもそも保坂氏なら当然のことなのかもしれないが、そのなかでも『存在と時間』の第二十三節を引用して語られていたことの奇妙な符合が、それはつまり、わたしの「『存在と時間』を読む」がまさしく第二十三節で止まっていることとの符合だが、これで、また継続しようという気持ちにさせてくれる。
 さらに、ハイデガーとベケットについては、それぞれ「強くなること」と「弱くなること」で同じフィールドのことを描いていたのではないかという指摘で、何かがすっとしたというか、すっきりしたのであり、だからこそ改めて読み続けようという気持ちにもさせられた。
 最後に「解釈」についてやはり保坂氏は懐疑的だった。作品を解釈することそのものに意味がないのではないか、作品を書くということは、つまり、そうした解釈をされることも含めた上での作品であり、それも内包した世界なのだから、そうして理解することは却って作品から離れることになるということ。これはまさしく。
●そして、もう一つは演出の太田省吾氏のレクチャー。
 ここで、ベケットの実際の演出した作品の演技について、太田氏は「通俗的な」ものだったということを仰っており、それがかなり意外だった。
■話は横に逸れるが、それに比べて今回の作品は、太田氏の演出でわたしの期待通りのものだったし、なおかついくつか新しい手法も使われていて、それが面白かった。
●で、話を元に戻すと、ベケットの作品以降について、というか20世紀の芸術で「わからないもの」が出てきたのは何故か、そしてそれには強い必然性があったというお話。
 簡単にまとめてしまえば、「自明性への懐疑」ということになるわけだが、それは確かにわたしの中でも、大きなテーマであったのは間違いなかった。
■また逸れて、わたしの話になるが、わたし自身にもその懐疑への懐疑ともいうべきものも確かにあったし、いわゆる「芸術家」だから「普通の格好をしません」とか、そういう感覚はちょっとおかしいんじゃないかとも感じられ、つまり、20世紀後半から現在にかけて、すでにその次の段階に進んでいると肌で感じていた。それはもう感覚的にそう思うのだ。
 芸術学部に入って、わたしたちの代では「おかしな奴らが減った」という話を入学したての頃に確か聞いたような気がするが、それも同じようなことではないかと思われるし、もうすでに表現されるべき内容はその段階ではないのだろう。
●このように、わたしはそのように次のステップとして、時代の移りかわりとして捉えているわけだが、太田氏は生きる上での「ほんの少しの希望」を人間は捨てることができないからだ、として話を閉じられた。

●とにかくこの日記を見てもらえればわかるとおり、わたしはかなり興奮したのだった。ここ数日の嫌な思いなどこの二時間の「リーディング+レクチャー」でどこかへ行ってしまった。むしろ、帰ってきてから見た仕事のメールもなぜか楽しく感じられるほどだ。
 こうした刺激で脳が活性化したことによるものだとわたし自身は判断しているが、脳が動き出せば、仕事も執筆も楽しく向かっていける。そのためにも、戯曲執筆は思考の運動。世界と思考を繋ぐ運動なのだと改めて考えたのだった。

セレンティビティ

●いや、原因はわかっている。仕事にある。仕事の時間にがっつり仕事をやって区切りよく一日が終われば、夜はきっと切り替えることができるはずなのだ。それはわかっているのだが、確実に何か悪い循環に入ってしまっている。
 そんな状態を切り抜けようと気分転換に昼休みは、フレッシュネスバーガーのクラシックダブルダブルバーガーを食す。ちょっといい。

■ともあれ、どんな状態であろうと、戯曲に向き合うことだ。途切れてはいけない。とにかく向かっていると、ふと今まで考えていたことと繋がる瞬間がある。
 それを脳科学者の茂木健一郎氏はそうした現象を「セレンティビティ」と呼んでいる。
 また『「脳」整理法』の中ではこのようにも書かれている。
 学習の機会は、日常生活の思わぬ局面で訪れます。街を歩いていて、ふと耳にした言葉や、集会で偶然出会った人の話。新聞でたまたま目にした記事。家の近所を散歩していて気づいたこと。
 日常の行為を繰り返す中で、偶然出会う体験の中に隠れている偶有性を私たちの脳が整理する中で、思わぬ発見がある。その発見が「私」を変えていき、ときには自分自身の人生を変える劇的な変化をもたらす。そのような、人生における絶えざる学習のプロセスの中に埋め込まれているのが、セレンディピティなのです。
 今日のように急速に変化する時代には、ある一定の知識を身につけておけばそれで一生十分ということはありえません。むしろ、自分の脳をオープンにしておいて、いつでも生きるうえで必要な何かが入ってくるように、スペースを空けておく必要があります。

●まったくその通り。だからこそ、「戯曲脳」のスイッチを切らずにいなければならない。

意識の変容

●もうあの事件から5年が経った。

●しかし、正直なところ、あまり鮮烈な記憶というものがない。わたしにとっては「地下鉄サリン事件」や「酒鬼薔薇事件」のほうがインパクトが強くその時代を一気に思い起こすことができるが、どうも9.11は何かあまり印象に残っていない。
 運転免許の取得に必死だったからだろうか。思えば、わたし自身社会と断絶していた時期だったのかもしれない。
●ドラッグについて調べていた。
 もちろん、自分がやるためでなく戯曲の題材の一部としてそれを扱うからだが、問題は「意識の変容」と言うことであり、それは「演技」と大きな関係があるはずだということに気付いてきた。
 わたし自身がよく戯曲の世界で書く、リアルなものから少し「跳ぶ」という状態は、そこにある種の動物的な変化への欲求とも言うべきものがあるからではないか。ここにも「意識の変容」を求めるわたしという存在がある。
●「意識の変容」と結びつけて考えれば、あのテロも、地下鉄サリン事件も、酒鬼薔薇事件も、同じように社会に意識の変容を促したに違いない。ならば、それは起こるべくして起こったものではないかとも読める。
 人間が求めている、あるいは人間の集団化した意識が求めている「意識の変容」は、いってみれば、自らの変化への希望ではないか。いや、「変化」が果たして希望に繋がるかどうかも定かではない。じっとすることに、耐えられなくなって動き出してしまうのだから、もうどうしようもない根源的な欲求ではないか。
 その先にテロも戦争もあるとすれば、それを単純に否定も肯定もできないのかもしれない。なぜなら、繰り返すが、「意識の変容」は自ずと求めてしまうものだからだ。そこに蓋をしようとすれば、それは一気に吹き出すことになるだろうし、それが前の戦争のはじまりのように日本人全体を一丸とさせ、取り返しのつかない方向に突っ走らせる。
 そうした状態になる危険性を意識できているか。どこで、何に対して変化を求めているのか。そのあたりについても、もう少し考えてみようと思う。
 そのためにも、あの5年前から何が変容し、何が変わっていないのか。そこを考える必要がある。

コロスについて

■いま、最も関心があるのはコロスである。

■それも女性のコロス。これをどうやって一時的な中心に持ってくるかが現在の課題なのだった。
■それから、今日は朝起きたときに、以前に書いたプロットのある設定についてどうにも自分で飽きているのではないかと急に思った。そこにももう一つ異なる仕掛けを組み込んでおく必要がある。
●それにしても、思考回路をこうして戯曲方向に向かわせることがまずは重要だ。
 そして一度入ってしまえば、何とかなる。そうして向かわせてくれるのがいまは『ポストドラマ演劇』(ハンス=ティース・レーマン著/同学社)である。そもそもこの『次の出発』を書こうとしたときに読んでいたのが、この本だ。もう一度原点に戻る必要があった。

何となく月曜日

●憂鬱だった。

●喉も痛い。ただしっかり眠れたおかげで何とか一日を乗り切ることができた。
■しかし、こんなことをずっと書いていても仕方がない。
 そろそろ真剣に戯曲のことを考えなくては。いくつかアイデアはあるのだが、まとまらない。何しろ久しぶりの新作だ。
■で、少し思ったのは、ある演技の体系の中であるいはある演出の中で演じられるものであれば、どんな戯曲の言葉であろうとも見学者の作品になりうるのではないかということ。
 つまり、もっといろんな言葉を吸収し、書いてみようという気持ちになっている。
 たとえば、もっと砕けた言葉。ボロボロに砕けた言葉を丁寧に演出したらどうだろうか。そして、新鮮な言葉はどこに転がっているんだろう。きっと、それは今のこの町の中にあるのではないか。

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