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哲学・倫理 Archive

なにをもとめていたか

●昨日の影響を受けて『存在と時間』を読む。非常に久しぶりだ。あ、ここであまり具体的には書いてしまうと、向こうで書くことがなくなってしまうので、この新鮮な気持ちはそのままに取っておこう。

●ただ、昨日の話を整理するために考えておくならば、問題はハイデガーが論理の力によって克服しようとしたもの、そしてベケットが弱者の論理で乗り越えようとしたものは何だったのかという問題だ。これについては、保坂氏も「わからない」と最後に言っていた。
 ハイデガーが問題にした「現存在」というテーマで何を浮き彫りにしたかったのか。もちろん、「存在」を問いなおすというのが『存在と時間』の一つの大きなテーマになっているだろうことはタイトルからも想像できるし、これまで読んできた箇所でも繰り返している。
 しかし、ベケットのいわゆる「わからないもの」として表出されるそれと、この現存在をどう関連づけていいものか、昨日はだいぶスッキリしたように思ったのだが、まだ、はっきりとはしない。
 そこにもおそらく人間の実存に関わる何か、わたしがここにいるとはどういうことなのか、その曖昧でどうにもはっきりしないことを何とか文学にしようとした人たちがいたわけだし、あるいはそれを論理で何とか明確にしようとした人たちがいたのだ。その当たりが大きなヒントになるはずだし、それはひいてはわたしが何故ハイデガーを読むのか、一部の演劇をよく見ようとするのか。そのこととも関係してくるはずだ。
 いずれにせよ、わたしは明らかにその影響下にいるということだ。そこを考えずにはいられない人たちは、他にもきっといる。

若者という年齢層

●昨日の日記にも書いたように、朝は4時半に目覚めてしまったものだから、妙に一日が長い。しかも、群馬に行き、さらにあちこちを丁寧に回ったものだから非常に疲れた。
 帰ってきたのは10時半過ぎ。まあ、そんな日常は延々と続くので、それは日常の方に任せておくとして…、演劇のことを考える頭に切り替えていこう。

●久しぶりに劇作家協会の『ト書き』も届いて、「そうか劇作家協会員だったんだ」ということも思い出したわけだし、部屋のスッキリ片付いたわけだし。
●で、今、若者たちのシーンを書きたいのだが、正直、だんだんどこからどこまでが若者(青年)と考えていい年代なのかわからなくなってきた。なにしろわたし自身が10代の頃から基本的にはあまり変わっていないんじゃないかと思っているからだが、それはまだわたしのなかに社会に対しても、自分自身に対しても、数多くの混乱が残っているからだろう。
 だから、とりあえず自分が一番混乱していた時期のことを思い出すようにして書くしかないわけだが、あのとき言えなかった言葉を何とか戯曲状の言葉に変えようとしてエネルギーを得ていたときから、やや視点は変わりつつある。
 混乱そのものに向きあう態度や状況を描く。
 そうした視点の変化が作品に及ぼす影響を大きいかもしれない。

ベンサムとwiki

●今日は急遽、ワークショップそのものは中止。しかし遅れてくるEさんとは連絡の付きようがないので、とりあえず稽古場で来るのを待つ。

 そこで、「今日は中止です」と伝えたならば、それはそれでおもしろいのかもしれないが、せっかく来てもらったし、わたしたちも稽古場にいるので、少し公演のイメージなどを話す。
●ワークショップを中止にしようと思った原因の一つに、わたしが途中で抜けなければならないというのもあり、あとは倉光とEさんの話し合いということで、わたしはお先に失礼して、群馬へ向かう。

●電車の中でフーコーがいうところの権力構造とベンサムの一望監視システムについて考えていた。

●一方で見学者内でwikiを使って、情報を整理していくことにした。
 戯曲そのもののこともあるが、演技の体系化をまとめるにあたってはこうしたシステムが便利である。
■見学者の場合、メンバーの二人だけが管理しているだけなのだが、たとえば、このシステムは一般企業内で使用する場合、もしかしたらベンサムの一望監視システムよりさらに強度なシステムとなってはいないか。
 そんなことも合わせて考える。

現象学という言葉の意味は限定できない

■いきなりの話で恐縮ではありますが、ここで「現象」というカテゴリを結構乱発しているのは、何も書くことがない場合、ただつれづれなるままにそのときに思いついたことをただ書くという作業をしているからだが、じゃあ、どうしてそれが「現象」なのかということになったとき、今ひとつ自分自身に説明し切れていないように思えたので、改めて。

■現象学は18世紀にカントが『自然主義科学の形而上学的基礎』という文献の中で、「物質の運動ないし静止を表象の種類ないし様態との関係においてのみ、つまり外観の現われとしてのみ規定する運動論の一部門」と書いたことに始まるようだが、これはあくまで自然科学の領域内で使われただけのことである。
■むしろ、哲学の世界ではヘーゲルの未完の著『精神現象学』のなかで「『現象』は『精神の現象』を意味する。精神そのもののそのつどの姿、形態のこと、その姿をその現れてくるがままに記述する作業」と書いているところによる、そっち側の現象学である。
 そして、それは現象学の父と勝手にわたしが呼んでいるフッサールに始まり、その後継から発展させているハイデガー、あるいは場所を変え、メルロ=ポンティに続くその系譜のなかの現象学だ。
■で、わたしはフッサールとハイデガーが共著として書いた『ブリタニカ論文』のことが気になっている。
 これを『ブリタニカ』として、フッサールとハイデガーを出さない日本人だけの映像用台本を書きたいと思っているのだ。これもすでに構想から3年以上経っていて、この段階でとりあえず止まっている。
●というわけで、現象学の復習。『現象学の思想』(木田元・著/ちくま学芸文庫)より一部引用しました。

十牛図

●先日リブロで購入した特注の額縁である。特注って別に特別な素材のものとかそういうのではなく、ただ、この十牛図に合わせた額が欲しかったので、そのサイズに合わせて作ってもらっただけなのだが、当然のことながらぴったりだった。

●ちなみにこの十牛図(牧牛図とも呼ばれるらしい)は、禅の世界では有名なものらしいが、河合隼雄氏の『ユング心理学と仏教』(岩波書店)によれば、普明という人の書いたものと、廓庵という人の書いたものの2種類が有名で、うちにあるのは円で囲われた日本に比較的普及したと言われる「廓庵」のものを別の日本人の版画家が独自に画風をアレンジして書いたものだと思われる。
 中身は「廓庵」のそれと同じである。
 1,なにか(牛)を探している若者が、2,足跡を見つけ、3,牛を見つけ、4,牛を手なずけて捕まえ、5,牛を連れて歩く(ここまでは写真の上段)。6,牛の背中に乗り行く先を牛に任せた若者。7,牛と人が一体化して牛はいなくなる。ここからは、非常に難しいところで、河合氏も上田閑照氏の言葉を引き合いに出し「相互透入相互互転の関係」ということになるらしい。まず、8,何もなくなる(絶対無の世界)。9,川の流れと岸辺に花咲く木。10,老人と若者が向き合っている。
 この10の老人と若者は、最初の若者が「別の他者と出会ったということではなく」、「真の自己がその『向かい合った二人』になっている」状態だという。
■まあ、禅だからよくわからないということで斬り捨ててしまえば簡単なことなのかもしれないが、わたしはそうはできなかった。特に8。
 そして、わたし自身も最後の10の二人の人物が一人の人物であるというところなど、まさしく『雲の溜まる休日』の最後のシーンで考えていたことで、それがやりたかったというのが最も大きい。
 そういう意味でもこの十牛図の世界には、とても大きな創造的可能性を感じるのだった。
●まあ、ただネットでいろいろ調べると、カルト的な解釈などもあるようで、批判的な意見も多い。
 そんなものはどんな解釈だろうと構わないだろう、とわたしは思う。何だよ、解釈って。「解釈」についてはただその言葉を聞くだけで何だか腹立たしい気持ちになるから不思議なのだ。

憂鬱と現象学

●うーん、どうも気分がのらない。やっぱり行きたくない。
 とはいえ、きっと時間が経つのはあっという間だ。

■物理的には同じ時間であるはずの3日間という時間も、気分ののらない3日間は長く感じられるし、舞台の本番前3日間はあっという間である。
 こうした個人によって見え方の異なる捉え方が現象学の基礎にあるらしい。
 だから、時間にしても距離にしても、あるいは重さというのもあるだろう、そうした見方は決して「主観的」ではないとハイデガーは教えてくれているが、このように「現象学的視点」と「主観的視点」というのは非常に間違いやすい。
■そして、憂鬱な気分のときには大抵のことに気分がのらないのだった。

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