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哲学・倫理 Archive

食べること

●『南極料理人』を観る。
 久しぶりにいい映画だった。そして多くの人たちが感じるようにこの作品の魅力は料理にある。観ているだけで幸せになるような料理。『かもめ食堂』にはじまり、料理を扱う映画が最近は増えているが、あまり積極的に観てはいなかった。いいなあ。ほっこりした気分にさせてもらえる。

●実際の食事がこんな感じだけに。余計にいい。昨日も今日も二品しかないおかずのうち一品は同じ「酸菜」。左右を入れ替えて気分を変えているつもりだろうか。最初の二日はそれなりによかったのに。そんなこんなで料理は大事だと改めて思い知る。
 そうはいいつつ、ダイエットのためには、あまり美味いものを食べてばかりもいられないのだが…。
●さて、話はまったく変わるが、次世代iPhoneのプロトタイプが拾われ、画像が公開、解体されさらに公開とメディア倫理の問題で問われているが、それに対して画像を公開したGizmodo親会社のCEOインタビューの記事が面白かった。これは秀逸な台詞である。

 「われわれは、いいように使われたのかもしれないし、罪を犯したのかもしれません。でも両方を同時にはできません。」

時が過ぎる

●レヴィ=ストロースが亡くなったというのはYahooなどのニュースでは見かけないので、内田樹先生のBlogで知る。いわずとしれた構造主義者の第一人者でもあるが、すでに歴史的人物のような存在のようではあったものの、改めて亡くなったのだということを知ると、「またひとつの時代が終わっていく」と何だか感慨深いものがある。
●さて、そんなふうに大きな時代が終わっていくように、小さな年もまた終わっていく。そんなわけで、2009年も残す2ヶ月あるわけだが、手帳を変える。正確には手帳の中のリフィルを変える。スケジュールで使うのは月間のカレンダーのみ。あとは無地のノートと罫線のノート、あとは方眼のノートをただ挟んだだけだ。今年はこれで行きたい。あとそれを手帳から外に出す際にまとめられるバインダーも購入。Amazonから届く。
●今日もまだまだ寒いので、炬燵を出す。明日はまた暖かくなるようだが、とにかく炬燵は出した。これですっかり冬モードである。そうしてまた一つの季節が終わる。

懲りない

●2週間以上前に掛かってきたある電話業者の同じ営業の電話がかかってくる。まあ、その電話のかけ方がひどかったので、それだけでイライラさせられたわけだったが、その上で、わざわざ東京から来て、結局ひかり電話では駄目だとわかり、そのまま帰って行ったという経験を持ちながら、また別の営業マンが電話をかけてくる。よっぽどノルマが厳しいんだろうなあ、とは思うものの、帰って本質的なところではイメージも悪く、基本的にこういう企業とわたしは絶対契約しない。
●あと、環境関係の人と話をするのだけれど、これも果たしてどこまで本当なのか。大企業がこぞって環境マネジメントを進めていく時代があり、それが済し崩し的に続く中、これらはおそらく下記環境倫理学の基本三方針によっているところが強いのだろう。

自然の生存権
人間だけでなく自然も生存の権利を持つ、人間は自然の生存を守る義務を持つ、といった考え方。「自然と人間の共生」という考え方にまとめることもできる。より強く権利を主張する自然の権利の考え方をある程度抑制したもので、行き過ぎた自然中心主義ではなくあくまで共存・共生を念頭に置き、公平な議論を目的とする。
世代間倫理
現在を生きている世代は、未来を生きる世代の生存可能性に対して責任があるという考え方。現在のように世代間に横たわる不均衡を調整する、という意味で「世代倫理論」「世代間調整」とも言う。深く論議していくと論理的矛盾も出てくるが、「現在世代の未来世代への責任」はある程度受け入れられている。現在を生きている人類が、環境問題の解決に当たって、先延ばしせず責任を持って行動するための根拠となる。
地球有限主義
他の目的よりも有限な地球環境を守ることを優先する、生態系や地球資源を軸に物事を考える、といった考え方。他の目的とは、快適な生活、経済的利益、健康、幸福など、人類にとっての利益を意味する。人類への利益の最優先ではなく、行き過ぎた地球環境の最優先でもなく、持続的に生態系や地球資源を利用していこうという主張。 Wikipedia-環境倫理学より-

●くれぐれも注意しなければならないのは、環境を金に換えようという者たちがいくらでもいるということだ。環境改善そのものが目的ではなく、環境を道具に金を目的とする人間を見分けるのもかなり面倒なことになる。

トルストイとドストエフスキー

ドストエフスキーとトルストイ
バフチンは「ドストエフスキーの詩学」において、ドストエフスキーとレフ・トルストイの文学の明確な差異を、画期的なポリフォニー論などによって示した。
ドストエフスキーの文学においては、上記のように客観的に叙述し得る単一的な真理は存在せず、各人の思想が否定されずに尊重される。各登場人物は、作者ドストエフスキーと同じように、1人の人間として思想や信念を固持する権利が与えられている。それはすなわち人格の尊重である。ところがトルストイの小説においては、しばしばトルストイの考えに登場人物が近づくことが、真理への到達と同視される。そしてトルストイと反対の意見を持つ人物は、しばしば自己完成からは程遠い人物として描かれるのである。バフチンはこれをモノローグな構成として批判した。(Wikipedia ミハイル・バフチンより

 という話がまずあって、いや、そもそも「管理とは何か」という話なのだけれど、まあ、英語で言えばコントロールなわけで、そもそも経済活動も含め、ある種「コントロールできる」という思考が前提としてある。わたしは見学者ではとことん万物の事象は最終的にコントロールは出来ないという立場でものをつくってきたつもりであるが、こと会社の仕事のことを考えていくと、あるいは管理者の仕事ということを考えていくと、コントロールを前提条件として外すわけにはいかなくなる。「制御できないデンジャーを制御できるリスクに変換する」とは内田樹先生の言葉だが、またデータベースのような非常に0/1の世界のことを考えていると、いよいよ管理とは何か考えざるを得ないのだった。
 もちろん、二分法も「0/1」から「00/01/10/11」、「000/001/010/011/100/101/110/111/」というように倍々に増えていくわけで、思考法をそのように倍々に増やしていけば、不特定多数のデンジャーもリスクに変換可能ではないかと考えないわけにはいかない。
 つまり、経済活動を行って行くにあたって、もちろん会社の安定・社員の安定生活を考えていけば、「なんだかわからないけど、たぶん大丈夫だ」という根拠のない自信は、それは、管理ではない。「こうすればこういう危機が訪れる可能性があるが、こう対処することでそれをカバーする」という筋道を立てなければならなくなる。
 おそらくそうした思考ばかりをしていると人間としてはかなり貧しくなる可能性がある。わたし自身は少なくともそう感じている。しかし、同時にこの不安定な世界の中で安定した収入を確保するためには、その責任が各人にある。そしてそうする人たちを守る責任がわたしには付いてしまった。こうすればこうなるのではないかと推論を出すことそのものは面白い。その面白さを楽しみながら、今はその責任を全うすべくやるしかない。

『死と身体』

●『死と身体—コミュニケーションの磁場 (シリーズケアをひらく)』という内田樹氏の本を読み始める。
 河合隼雄先生が亡くなった今、わたしにとっては内田先生との出会いは新たな大きな一歩である。N氏から勧められていた『寝ながら学べる構造主義』もまた内田先生の本だったが、個人的には内田先生がレヴィナスを師匠と仰いでいるところに運命的なものを感じた。そして、何より言葉がすんなり入る。
 この本の第四章『わからないままそこに居る 身体と倫理』は非常に示唆的なタイトルだ。
 ここから、また思考的にも次の一歩を踏み出せるような気がする。

その狭間

●今日はいろいろと思いつくことがあったが、まだ整理しきれない。
たとえば、ポスト構造主義と構造主義の狭間にあるところの認識の違いのようなものが、何となく横たわっていて、どちら側からその人が話をしているのか何となくわかると実はかなりコミュニケーションはかなりスムーズに進むのではないかという話。
あるいは20世紀の思想と21世紀に向けての思想の狭間の話。
●疲れがひどい。一向に片付かないものがあるが、もう限界。目もかなり充血中。

価値観と平明さ

●久しぶりにパターナリズムのことを思い出していた。
 いわゆるオマカセ主義もパターナリズム(父親的温情主義)を助長する姿勢として、挙げられるわけだが、わたし自身がこのパターナリズムに陥ることがとにかく嫌なのだ。特に仕事においては。それでもいつの間にかそうなってしまいかねない状況になっていることに気付くと吐き気がする。
●『知の攻略〜思想読本』(作品社)というちょっとどうかと思うタイトルのMOOK本で「ハイデガー」の巻があって、それを購入していたのだが、ふと気になって読み始めたのは、もちろん『ブリタニカ草稿』のこともあるけれど、古井由吉氏と木田元氏の対談に興味があったからだ。
 そのなかで、まず『存在と時間』が表現主義だとある。そして、現象学そのものも表現主義だと。つまり、古井氏の言葉を借りれば、「主体と客体の中にあるものをすべて外に押し出していく。それを観察して表現する」のが現象学というわけだ。まさしくそうなってくると、表現主義的なことになってくる。
 見学者の作り方もそうだが、わたしがハイデガーに惹かれたのもおそらくはこの表現主義的な手つきになのかもしれない。
●さらに、核心的なところで木田氏は「表現主義の文体は何かと言いますと、凄まじい形容詞がいくつもいくつも並べられて、最後に実につまらない名詞が来る(笑)」と語り、それはまさしくその通りだが、それに対しての古井氏の言葉には何か示唆するものがある。

 文章の平明さというのは、その世界の価値観の安定とやっぱり関係がある。価値観が揺らいだところで平明な文章を書くということは一種の偽善になるわけです。文学的偽善、哲学的偽善。かといって新しい文体はそうそう簡単に生み出せるわけではない。だから、例えば形容詞をいくつも連ねる。一方では論者の情念のたたみかけということもある。けれども、形容詞の持っている既得の情念なり、観念なり、喚起力を無化していくというところもある。-中略- ハイデガーは一種のパトスから形容詞をたたみかけてくるけれども、よく見ると、その形容詞をできるだけ従来の情念から洗い直すためにたたみかけてくる。最後の名詞がつまらないというのは、名詞はどうにもならないから。(笑)(対談「ハイデガーの魔力」より)

 21世紀初頭の日本の団塊の世代が過ぎ去ったあとの日本社会が待ち受けるのは、また新たな価値観の世界になるはずだ。
 それを踏まえて、見学者としての活動をさらに続けていくことにしよう。

働くことに疲れたら

●内田樹(たつる)氏の言葉は非常にわかりやすく届いてくる。
 『疲れすぎて眠れぬ夜のために』のなかの「働くことに疲れたら」の章は、今、まさに読み応えのある内容だった。
●レイバーとビジネスの違いを説明し、ビジネスの面白さはお金儲けではなく、何か新しいことをするとその結果がすぐに出る、その「反応の速さ」にあるのだと説く。だからこそ、自分の取れる「責任」と「リスク」は次第に大きくなることで、その反応に対する手応えをさらに大きく実感できることが、つまり上に立つということではないか。
 レイバーとは、やることが決まっていてマニュアルの中で、ただこなしていくだけの仕事。リスクも責任もなく、仕事に対しては給料しかない。わたしのバイト時代はまさしく、レイバーだった。
 不祥事を起こした企業の社長や政治家、いじめを隠す学校の校長など、上に立つものが責任をできるかぎり、先延ばししようと別のところに非を探す。そんなところに未来はない。
●それを踏まえて、「勝ち組・負け組」などという「さもしい言葉」を使う世界ではなく、自分たちが作ったものに対して、正当な対価を得ること、その上によろこびも合わせてもらえるかどうかという世界に自分たちがどうやって関わっていけるか、そういう社会、あるいはその手前にある会社をどうやって培っていけるか。
 そういう世界で、周りもやっているからと横しか見ないくだらない社会にわたしはまったく興味がない。相手にしている時間が無駄だ。

何ができるか

●今日は金曜日。この一週間何とか生きていられた。何とも言えないこの充足感のなさはどうしたらいいものか。
●朝のニュースではわたしの生まれた町の役場の役人が出ていて、舛添要一厚生労働大臣に責められたことに対して、何か言っている。年金の横領問題。そんなものは結局氷山の一角でしかないんじゃないか。
 この町に生きていれば、それは肌で感じられる。そして、それにまた馴染んでしまえば、いつのまにかそれが当然のことのようになっている。
 いや、そんなに極悪人がいるわけじゃない。ただ、自分たちがやっている現在のことと、世界がどういう方向にこれから進もうとしているかというそのギャップに気付かずにいるだけだ。まあ、それが問題なわけで。
●昨日の話を引き継げば、「だから、今こそ俺たちはもっと○○していかねばならない」とする姿勢は確かに可能だ。わたしも気分が乗っているときはそうしているのも事実。そうしていれば、少しは気もまぎれる。
 しかし、本当はそうした態度はあまり意味がないんじゃないかとも思える。一種の表現として、それはありだとは思うが、効果的かどうかという意味ではどうも”?”が残る。
 ここでは(いや、ほとんどの地方でもそうだと思うが)一種の「実存主義的態度」が良かれ悪しかれ深く根ざしているのであって、それも結局、この日記の冒頭にある「充足感の無さ」から生まれてくるものではないかとも思う。「真実」や「正義」を振りかざすアメリカ的なものに対する一種の抵抗にはなりうるが、そこに甘えのようなものが加わると、もうどうにもならない駄目スパイラルに陥る。「ニヒリズム」しか残らない。
●もっともっと俯瞰で見たい。
 そして、今のわたしが出せる答えは耳を傾け、そこに共感する以外にない。「甘え」のないあらゆる話にわたしは共感できると思う。今のわたしにできるのはそれしかない。

ためらいの倫理学

●Amazonで注文した『ためらいの倫理学—戦争・性・物語“>』が到着。
 気付けば、ここ最近は内田樹(たつる)氏の本が増えている。
 誰か気になる作家や思想家がいて、それを追いかけて本を買うということは今まで多かったが、いつのまにかこの人の本が増えていたという現象は初めてのことだ。
●短い文章が続くので、気になったタイトルから読む。
 「分かりにくく書くこと」の愉悦について
●なんて興味深いタイトルだろう。
 言わばポストモダニズム的論文を合理的・実存的視点から指摘した問題点を参照しながら、実際のところ、「自分が何を言っているのかわかっていないときに、変に面白いことを言い出す人がいる」とか、「不明瞭なものがすべて深遠であるわけではないが、不明瞭である上に深遠でもある思想というのは確かに存在する」とかいうことが書かれており、人間のデタラメさをどれだけ受容できるかというのは、人間のスケールの問題だということにも共感できる。
●ストレスの溜まる仕事の毎日だが、こうしたものに触れ、また舞台のことを考え、あるいはここに関わってくれた役者達・スタッフの人びとのことを思い出すと、まだやり残したこと、やらなければならないことが山ほどあるから、生きていかなければと思うのだ。

臨床哲学

●昨日の話とも繋がってくるが、最近は『臨床とことば』を読み直している。
●臨床心理学者の河合隼雄氏と臨床哲学を提唱する鷲田清一氏の対談。
 臨床哲学は個別ということにこだわりつづけ、個別の足し算ではなく、個別という一例を深めることで普遍的な場に出る。臨床心理学でいうところの事例研究。理論のことは勉強しても、ディスカッションなどの席では一切使わない。
 こういう話が今のわたしには必要で、頷くことばかりだ。
●日本の倫理基準についても、最終的には美的判断ではないかということ。
 「嘘をついてはいけない」という倫理・道徳ではなく、その場面で「嘘をつくこと」が美しいか、美しくないか。
●そして、それらはきっと作品作りにも通じることであり、彫刻家のジャコメッティは「一人の人を描き切って、描き切ったら、なぜかその顔は、誰の顔でもあるように見える」という。
 この言葉から、敢えて抽象的な言葉で普遍性を語ろうとせずとも、別のルートがあることを改めて再認識できた。
 ここからおそらく次の作品も見えてくるのではないかと思っている。

発見の思想

●久しぶりに仕事で淡路町に出る。今日は電車で移動。

●最近どうも見学視点が鈍っているようにも思っていたが、少しずつよみがえってくる。
 ちょっと思いついたことをすぐにメモできるようなこと状態でなければ。脳が運動している状態。発見を求めようとする頭になっていない。
 仕事では問題発見から問題解決。それの繰り返しばかりと脳は疲弊するのではないか。
●喜びと共にある発見は、「これは金になるぞ」とかそういうことではなく、もっと純粋な「これ、こんな見え方が出来るんだ」とか、驚きと喜びの発見が、また次の活力になる。
 そのための見学。それを与える作品づくりをしようと思ったのだった。
 で、それは身近なことから、できることから実行していく。

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