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現象 Archive

抱っこ紐/stickygram

●我が家ではむすこんが生まれてすぐ出掛ける用事があったので、特に選ぶわけでもなく抱っこ紐を購入したが、サイズが調整できるのはいいものの、自分一人でセッティングできない。
 そんなわけで、Twitterでみんなにアンケートを採ってみたら親切にもいろいろ現在使用している抱っこ紐について教えてくれる。
●やはりエルゴが圧倒的な人気らしい。
●赤子扱いできるのも残り一ヶ月弱。一歳になると赤ちゃんではなく幼児になるようだ。それでもしばらくは抱っこが必要だろうし、わたしもできることなら簡単に変わってあげられる紐があるといい。
 そんなわけで鋭意調査を続けている。直接Webで商品を見るのはもちろんだが、すでに気心の知れた人達の声が聞けるのはありがたい。

●そんななか、福岡に残ったつまんはTwitterを通じて知り合った人達とこどもを通じた交流。

●一方、Instagramという写真アプリと連動したサービスがある。もっぱらこどもの写真ばかりだが、わたしも利用していた。
 その写真をそのままマグネットにしてくれるサービスがある。stickygramだ。年末に注文して、エアメールでイギリスから今日届いた。
●単純に印刷屋の目線で言えば、オンデマンド印刷で行っているものだし、輸送費をかけずとも日本国内でできるものだ。すでに同じような設備を持った印刷屋は日本のあちこちにある。ネットを使った商売をしている印刷屋も数多くある。技術的にも印刷と定型のカットだけだからそれほど難しくもない。$14.99なら利益も十分だろう。
 だから、日本語・日本円で注文できるサービスができたらもっと使われるだろうけどもなあと思う。
 ただ、問題はInstagramというソリューションと連係できるかどうかというところなんだろう。技術やコストだけではなく、そこに消費者の生活(息づかい)が入って、初めて仕事は花を咲かせる。

●Instagramが生活の中に入っている人たちが使う。
●さらにstickygramによって、デジタルのものがアナログに変換され、目の前に現れる。デジタルはアナログに至るまでのプロセスにもなり、それは時間の流れと共にまた変容している。

●そんなふうにアナログとデジタルの狭間を行き来しつつ、時間の概念が少し変わってきているように感じる。うまく説明できないけれど、1本の線のような時間ではない、複数の線が平行して進む。デジタルとアナログ。戻ってくる場所はもちろん生身の身体だが、意識はどこにでも行ける。

同窓会

●中学の同窓会があった。前回から7、8年ぶり?でわたしは前回中国に渡っていたから、参加できず。思えば20年ぶりになった人もいる。
●あまり多くを語ることはしないが(そのために一日間をあけたくらいだが)、有り体に言えば、みんな変わっていなかったし、変わっていた。
●先生が当時、わたしたちを教えていたとき、わたしたちより年下だったことは興味深い。
●利害ではなく、ただの友人としていろんな人と話せるのは楽しかった。

●あと、『雲の溜まる休日』で建築途中に入り込んだ若者の話を書いたが、ずっとわたしのなかに残っていた中学時代、建築途中の我が家で実際にあったことだ。それがたまたま事件になった。当時その現場にいたという同級生から話が聞けた。向こうから話をしてくれた。しかし、彼は中に入らなかったのだそうだ。一緒に入らず、ただ外で待っていたひとがいた。
 わたしはあの台本を書いたことですでに過去の記憶を整理していたが、そこにはまた別の角度からその世界にコミットしている人間がいたのだ。

忘年会、あるいはマイクロスリップ

●今日は会社二度目の忘年会。最初の挨拶と顔出しを兼ねて、少しだけ参加。
●『現代人の祈り』(サンガ新書)を読んでいた。まだ前半のみ。
 そのなかで特に興味深かったのは「マイクロスリップ」という現象について内田樹先生が話していたことだ。
 たとえば、コップを掴むときのほんのわずかな指の動き。指先の試行錯誤という微細な(マイクロ)失敗(スリップ)を繰り返して(実際には途中でさまざまな選択肢を吟味しつつ、小さな失敗を繰り返しながら、最適な動線を見つけていくという作業。
●これは、まさにこどもがつかまり立ちをするときにする作業を見ていても感じるし、そこからどうやって座る体勢に戻るかを観察していてもそうだ。最近はお尻からドスンと落ちて上手に座る。最初は何度か頭から着地しようとして、泣いていた。いや、この場合マイクロじゃないな。完全な失敗だけど。

●この話はそもそも「予め(あらかじめ)」というところで話されたこと。あらかじめ終わりを予測する(過去の体験からの推測)ことで身体の精度を上げていく。身体の動かし方の話だけでなく、生き方においても「こうなる」と先に決めることで、逆に自由になるという発想だ。わからないから不安になって、わからない事態に直面したときに混乱する。「決断」と「不決断」が同時に身体の中で行われている状態がもっとも生きる力が強くなっているという話だ。
 まあ、そこから話は祝いと呪いの話になるわけだが、それはまた別の機会に考えよう(実際、今朝立ち寄ったコンビニのレジの男の子が、身体がガチガチで負のオーラが漂っており、完全に呪われた状態だなあと感じたのだけれど、それもその時に考えよう)

●ただ、今日はあくまでもそのマイクロスリップという現象の話。ここから生態心理学、アフォーダンスのことについても興味が湧く。

入る/リスク

●仕事上で会社のPCが急遽壊れたので調達。某大手海外メーカーのPCサイトから注文しようとするが、何度やってもうまくいかない。
 カートの中の商品が削除できなかったり、カード決済前に勝手にログアウトさせられたりでかなりのストレス。最終的に電話して、何とか注文できたけど。
●だいぶ時間を奪われてしまった。
●そんなこんなでちょっとうつうつとした気分に入る。
●それもこれもまた明日から大連だからだろうか。あと、詳細な汚染Mapが文科省から公開されていたが、熊谷市街地などのかつての住まいは少しだけ高くなってる。
●産地偽装が当たり前のようになっている話もあり、何を信じていいのかまったくわからない。自分たちはともかく子どもをあらゆるリスクから守ってやりたい。テーブルの角に頭をぶつけても痛くないようクッションをするのと同じ。
●同じような問題はポリオにもある。厚生労働省め。誰かがつぶやいていた。

「ポリオワクチン問題、厚労省おかしいだろ。救済処置がないから危険な方のワクチン受けとけってなんだ。より安全な方がいいけど全国でやるには時間かかるから県独自で導入するなら援助します、って立場でしょ。国が遅いから悪いわけで痺れを切らした県に「ごめんね。遅くて。でも援助するからね」でしょ

まさに。独自に安全な不活化ポリオを導入した神奈川に対する否定的な態度。おかしすぎる…。

なんのバランスか

●朝から年金支給が切り替わるとかいうニュースが流れる中、横浜でストロンチウムが検出されたとか、世田谷で線量の高い場所が。とかいう一方で、福島県産の米は暫定基準値を下回ったとかですべて出荷OKになったという。
 経済と健康をバランスにかけることそのものがおかしいってどうして気付かないんだろう。
 あるいは、今回の放射性物質が健康に影響はないと断言している文書(PDF)をいくつかすでに出しているけれど、航空モニタリングだけでなく、今回の横浜や世田谷のような例を含め、東日本全土に及ぶ局地的な除染への対処もなく、「心配している方がよっぽど健康に悪い」などというような文章を出すことしかしないのは、完全に子どもをまもる機能はないと判断されても仕方がないだろう。何のための文部科学省だ。余計に不信を生む。
 何と何を天秤にかけるのか。
 利便性と安全という話ならまだわかる。利便性を捨ててでも安全を選択したからこそ、この夏の節電は大きく成功したのではなかったか。一応、某電力会社からも会社に15%達成の証明証が届いてたけど。うーん。なんだかなぁと思わざるを得ないよ。

デマ/できること

●夜、昼間できなかった仕事をコツコツとやっていたらいつのまにか時間は過ぎていた。そもそも、定時を過ぎ仕事が終わった後はFaceTimeやらでまた忙しいのだ。また、いくつかの調べもの。
●Twitter上でのたとえばデマの増殖についてはこのアンパンマンカレー事件( http://togetter.com/li/176831 )が一例としてあり、それを読んでいたが、そんなことより問題はいつまでたっても情報が明確にならないことだ。
●たとえば、群馬県も地上1mの空間線量率を調査するという。まあ、やるに越したことはないが、遅すぎる。
 ある市長の話から推察すれば、おそらく県の対応はかなり遅い。できるだけやらないでおくに越したことはないと考えていたのだろう。
 で、今になって。
 これはあくまでも邪推だ。読み飛ばして貰って構わないし、これを真実のように語るつもりはないが、おそらく事故後数ヶ月ではまだヨウ素の数値が高く出てしまうからだろう。できるだけ先延ばししておく必要があったとわたしは考えている。
●一部では、陰謀説が多すぎると話題にもなっているし、もちろん、そういった向きがあまりにも強いのは危険だとは思う。
 単純に国があれだけ「直ちに健康に問題はない」と繰り返していれば、県が先回りして「健康に問題がある可能性を考慮して調査しておこう。費用は自己負担で」とはならないだろう。それは充分にわかる。
●いずれにせよ。わたしたちはすでに正確な情報を得る機会を失っている。そのなかでわたしはどうしたいかだ。正確な情報を知りたい。そのためにできることもやろう。

熱中症/なめこ/ペルセウス

●妻が朝から吐き気、頭痛ということで熱中症ではないかということになった。味噌汁の上澄みを吸ったらよくなったというし、いよいよ熱中症かと。家の中に居てもそうなるのかと。で、赤子も居るので午前中に一度家に戻り、病院に連れて行く。夏風邪の一種で、最終的には急性胃炎という診断だった。
●そんななか、わたしはiPhoneアプリの流行りもの、なめこ収穫をはじめる。
●それから、同じ二月生まれの子を持つ人達のなかで、手足口病の発症例が次々と出ている。こればかりはな、今日もスーパーのベビーカーに乗せたが、おもいっきり舐めるし(もちろん除菌シートで拭いているけれども)。あまりの舐めっぷりに見知らぬお婆さんが心配するほどだ。どこでどう感染するかわからない。
●そんな流行に関するいくつかの話。

見慣れぬ食堂/ATOK 2010


●金曜日はうまく昼食にありつけなかったので、現地の社員について行って近場の食堂に行ってみる。入口にコックらしき人物が座っているからわかるものの、確かにこれでは食堂とは一目見てわからない建物だ。6.5元(今日現在のレートで85円くらい)。
●で、気付いたらATOK2010へのアップグレード。16日に出ていたようだが、当然、休日Macはネットに繋がっていないので更新されず。本日急遽更新。見た目上は何が変わったわけでもないが、まずは更新。詳しくはATOKのページのここにあった。
 心なしか変換も賢くなったようには感じられる。iPhone4の変換になれたからか、ただそれでも長文を一気に打ち続けて、スペースで一気に変換しても大丈夫だという安心感がある。
●夜は急に中国語の勉強がしたくなって、iPhone4内の辞書を片手に現地テレビを見る。経済バラエティ番組だが、なかなか面白い。
●サボタージュがあちこちで発生中。うちは今のところ大丈夫だけど、明日は我が身。こういう時に中国語で直接彼らと話ができるかどうかは結構大きな違いになって来る。いかんせん、どこに仕掛け人がいるのかわからない状況だ。組織というのは本当に厄介だし、経済もまた厄介だ。その二つが組み合わさってさらにややこしい問題に発展する。

改めて見ること/大連へ

●いつもの時間に起床。七時過ぎには家を出る。熊谷駅から成田へ。
 移動中にこの日記のことを考えていた。この日記のコンセプトは、そもそもが見学者のスタンスをそのまま表したものでなければならない。つまり、事実をただ記するだけの日記を垂れ流しても仕方がない。
 twitterもそうだけれど、何を情報として出せるか。それが「有益な情報」かどうかという問題ではない。事実を編集したときの加工の問題だ。改めて考えつつも、そうしたものを意識していた時期もあったのに、今はつい楽をしていたんだろうな、それができなくなっていた。仕事もプライベートもなく、目に映り感じられた現象を楽しむ姿勢でありたい。
 いわゆる「カテゴリー」とか「タグ」とかを先に気にしてから書いてしまうとつまらなくなるのだと今気付いた。カテゴライズは先にあるものではなく、あとからされるものでなければならない。それが「百の目、千の事象」というタイトルの意味でもあるはずだ。つまり、どれだけ多くのカテゴライズを持っていても、逆にそこから入っている限りはいつまでもその枠からは抜けられない。

●中国国際航空。CA952便で大連へ。
 今日の飛行機は3シート、3シートの小型タイプ。通路側を選んだが、真ん中に座ったおじさんがやけに太っていてわたしの半身が通路に飛び出すから、よく通路を通る人とぶつかって落ち着かない。そんななか何とか集中して本を読む。集中させてくれる本があることは非常にありがたい。飛行機が小さいこともあったのだろうけれど、今日のパイロットはその上、やや操縦が粗い。久しぶりに飛行機で酔った。
●思ったよりも寒くはなかった。大連。一般的には三月十五日に止められる公共暖房も月末まで延長されているとのことで、部屋のなかは暑いくらい。
●今日の所はいろいろとメールを確認しなければならず、めいっぱい中国移動でのテザリングを使う。明日はホテル移動しよう。

また別の視点

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●何か特別書かなければならないことがあるわけでもない。何かあまり気乗りしないというか、どうも気落ちしたままなのは、日本で約束したことが守られないビジネスの世界にやや食傷気味なだけだ。日本に帰ってもまたそんな人たちと対峙しなければならないかと考えると、ちょっとうんざりする。
 まあ、そんなことを引きずっていても仕方がない。このイライラは割り切ってあくまでもビジネスの中で正当に昇華させるべきだ。
 そして、それとは別に創作の世界に向かうことでまた新たな一歩を踏み出せる。
●あ、そういえば、書くことあった。奇妙な偶然の一致として、一昨日月曜日ぶつけられた車がうちの社員の知り合いだったと聞く。突然、月曜日に車ぶつけられた?と聞かれ、なぜ知っているのかと聞くとどうやらその社員の知り合いだったという。少し話したあとぶつけた方の車がタクシーのあとをついてきたのか、あるいは電話の連絡先を交換したのかしたのだろう。あるいは警察があとで介入したのかもしれない。わたしが運転手に降りる場所を告げた名前をその社員は知っていたということは、(会社名ではない)何らかの交渉があったのだ。考えてみれば、当たり前のことだ。
 あと、その社員からも、また他の何人かから、タクシーで事故にあったときは料金を払う必要はないと忠告されるが、特別それで遅れたわけでもないので何とも言いようがない。
 いずれにせよ、わたしの行動そのものがどこか別の角度から見られていたというような、奇妙な感覚は興味深い。
●そうだ、また別の視点である。わたし自身が獲得すべきは今見えている風景ではなく、そうではないまた別の視点の獲得だ。そのために異界への入口を探る。小説の中や自らの創作のなかだけでなく、わたしたちの身の回りにまずその異界への入口はある。創作に於いても、むしろそこから考えることができるはずだ。
●うーん、かなり頭がぼんやりしてきた。一通り準備は完了。明日は帰国。

頭の中の現実

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●会社ではもう嫌と言うほど喋ってしまった。まだ今ひとつ自分の中でしっくり来ない問題があるのだが、それは単純に「経済」や「組織」という問題のことだけでなく、金の使い方、人の使い方までそれぞれの思惑が混線している中をある一本の筋で通そうとしているところに生じてくる問題だ。それがまた至難の業ではないと改めて知る。形式だけになりはしないかとか、話し方としてわたしの伝え方は合っているのかとか。
●それはある意味、舞台稽古中の役者がその世界に生きているかどうかを探ってじっと見つめる作業に似ている。
●「机上の空論」とか「理想論」とかいう言葉がいくつか聞こえている中でも、あえてわたしは言いたい。「お前が見ている現実も結局はお前の頭の中にしかない」と。ある虚構の上に成り立つ世界(これは経済社会も一つの虚構であるというわたしなりの前提があるのだが)というのは、部分的に「ある」ものではなく、「作る」ものだからだ。「現実」は結局それぞれの頭の中にしかない。一時期、「リアリティ」とか「リアル」とかいうものが問題になったときのように。
●ただし、ものづくりにおいて、三現主義「現場・現物・現実」を重要視する姿勢はもう一つの大きな前提条件。「現場で起きた問題の現物を見て、現実=実際にどのような状態にあるか」を確認して、判断することであり、この際の「現実」とは「実際にどのような状態であるか」ということである。それと「どうしていくべきか」という問題は別の問題だ。そこには大きな飛躍か段階的解決が必要になる。
●このドラム缶の中に土が溜まり、草が生える状態になるまでに何があったのか。そこを本当に知るためには、もう一度「現場」に足を運び、「現物」を見て、その土の深さや草の生え方などじっくりと観察するしかないのだ。

豚インフルエンザと帰国

●何事もなく、大連からのタクシーも80元だったけど、スピーディかつ安全に空港まで運ばれ、飛行機も遅れもせず、速まりもせず、ほぼ順調に到着。
●ただ一つ異なるのは、成田空港に到着後、入国手続き前に健康診断所があるが、そこでA4わら半紙に書かれた三つの質問にチェックをし、住所・電話番号とパスポート番号を記載して提出したことだ。急なことだったので、全員で群がる。日本人ならまだ内容はわかるが、中国人にはとても内容がわからないのではないか。温度差が全然違うし。
 その質問というのが、ひとつ目は「アメリカ、メキシコからの帰国か?」、二つ目が「十日間以内にアメリカ、メキシコにいた人たちと接触したか? 」三つ目は忘れてしまった。SARSの頃のことを思い出す。TBSのカメラも発見。大型液晶画面では昨日のメキシコからの直行便があったというニュース。税関職員をはじめ、成田空港の勤務の人たちはもちろん被害の可能性という意味では非常に高いわけで、だからといって仕事を休むわけにも行かないだろう。みんなしっかりマスクをしていた。そんななかいわゆる受付嬢てきな仕事の人たちはマスクをまったくしていなかったわけだが…。
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●バスで職場近くまで戻り、妻に迎えに来てもらう。移動疲れがあったので早めにあがる。近くの食堂で食事。しっかりトンカツの乗ったカレーを食す。

断ち切る

●左のTwitterでも軽く呟いたが、朝からタクシー停車場のおじさんと一悶着あったり、上野行きの電車は赤羽前で警告を報せる無線を受けたとかで一時停車するし、そのために京成上野から普通列車で充分間に合ったのだが、結局、京成スカイライナーに乗る羽目になってしまったり。どうも最近負のサイクルに入っている。
●狭義の現象学的な視点で考えれば、まあ、それも自分で引き起こしているというか、そういうものしか見えなくなっているとも言える。結局、それを気にして引きずるか引きずらないかだ。
●つまり、そう考えることで、わたし自身の意識を変えれば負のサイクルは断ち切ることが出来るということになる。
●そんなわけで、やや思考に攻撃性が増しているため久しぶりの成田空港第二ビルで、久しぶりに心理学関係の本と茂木さんの脳の本、仕事の雑誌を購入。そうだった、今回は日程の関係でいつものCA(中国国際航空)の飛行機が取れず、また価格的にも今回はCZ(中国南方航空)のほうが安かったため、CZにしたのだが、半年ぶりくらいの第二ターミナルはなつかしさすら感じる。
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●で、大連に無事到着後、スッキリとした快晴。飛行機の中でも本を読めたし、気分も断ち切れた。
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現象の「地」と「図」

●今日は特別書くことがないので、この言葉を抜粋して眠りたい。

人間は重要なことについては、つねに原因と結果を取り違える

●ニーチェの言葉らしい。だからこそ、現象の「地」と「図」を逆にしてみる。『街場の現代思想』からの孫引。

対症療法と原因療法

●いっぱいいっぱいになったときには、自己防衛本能が働いて、どうやら一旦停止しようとするようだ。ここのところ夜は常に一旦停止状態。何もする気が起きない。ただ、気になっていた言葉があって、それをWikiPediaから引用。

 例えば、腫瘍による痛みがある患者に対し、腫瘍を手術や薬剤により制御しようとする治療が原因療法である。一方、薬物やレーザーなどで痛みを制御する治療が対症療法である。 他にも、風邪をひいた時の、咽頭痛に対する鎮痛薬、発熱に対する解熱薬、咳に対する鎮咳薬なども対症療法の一例である。
 医療技術が進歩した現代においては、疾患を治癒させ健康を取り戻すことのみが医療の目的であると考えられがちである。しかし疾患の進行程度や患者の全身状態によってはそれが叶わないこともあり、適切な対症療法が必要とされる。患者本人の意思により対症療法が選択されることもある。また、風邪のように対症療法のみ行いうる疾患も存在する。
 対症療法と原因療法は対となる概念であるが、治療においてはこれらをバランスよく組み合わせて行い、症状を制御しながら原因疾患の治療を進めるのが理想的である。

●まあ、何事もバランスである。

悪夢

○朝4時半くらいのことだったろうか、わたしは車を運転していた。家に帰る途中だった。竹藪に囲まれた細いカーブに入り込んで、道を間違えたことに気付いたが、Uターンできるほどのスペースはないので、そのままバックして引き返す。しかし、身体が動かなくなり、アクセルからブレーキへの足の移動さえできない。ブレーキを踏もうと思っても、アクセルを踏んでしまう。もうどうにもならないと思ったところで、目を覚ました。
●そんなわけで、嫌な夢で起きてしまい、そんなときに思い出したくないことばかりが思い出され、仕事のことなどが頭を巡り、どうにもならなくなって起きた。
●それからしばらくマリオカートで時間を潰し、朝6時半くらいにまた眠る。それからようやく熟睡できた。
●大連に行く直前はいつもそんな感じでうなされる。特に仕事が一向に追いつかないというか、自分で決めたタスクが終わらず追いかけられている感じがするからだろうか。自分で中途半端になっている仕事が山ほどあって気持ちがわるい。一つずつでも片付いてくれると気が楽になるのだが、新たにやらなければならないことは生まれていくので、どうにもならなくなる。

コンクリートの穴

●毎朝通るコンクリートの道に直径40cm深さにして15cm程度の穴があいている。それも三つくらいある。まあ、何てことはないのだけれど、それを見るときに何だかわからないのだけれど、ゾッとする。何だか非常に気持ち悪い。いま、思い出すだけでも寒気がする。この感覚を誰かにわかってもらいたいのだけれど、うまく説明できない。

ムラ

●それにしてもこの日記のムラといったら何だろう。思考のムラもあるけれど、気分のムラが大きい。「ぶつけられる」あたりから、昨日の「ドイヒー」まではもう本当に滅茶苦茶だ。こんなことが経済社会で許されるだろうか。ビジネス検定を取れるだろうか。
まあ、取れるんだけど。
 つまり、いずれもすべてわたしだし、そのすべてで形成されているのがわたしそのものだ。
 まあ、そもそも人間からこのムラをとってきれいな一面のみを見せているのがビジネス社会である。だからこそ、懇親会や忘年会などの席で同じ会社の社員の違った一面を見るのは当たり前のことだ。そして、そのムラを見なかったことにしたり、無理に上から塗りつぶそうとすれば、また別の箇所がムラになる。
●見学者というか、芸術の役割はそのムラそのものに焦点を当てることだ。普段は見落とされてしまいがちな、むしろないがしろにされてしまうからこそ、そこに焦点を当てる意味がある。しかし、「対経済社会」という構図のなかでの芸術という立場にはあまり意味がないのではないかとも思う。そもそもそれを意識しなければならないのは、未だに、昭和の高度経済成長時代の幻想から抜けきれぬ世代の、さらにそのなかの一部の人間がいるからだ。あと20年したらようやっと次に進めるのではないかと思う。
 東京にいる間はそんなことを考えずに済んだ。そうした意味においては20年進んでいるからだろう。
○ 結局、人間性はビジネス上であろうと、生活上であろうと、そのすべてがその人の顔や姿勢、行動に表れるはずで、本当はもうそこからスタートしたいところなのだ。だから、分けなければならなくなる。
 分けようとすれば、また今置かれている現状とのギャップが生まれてくるから、表現に嘘が出る。
 このジレンマにいる。

現象学的接近法

●以前から書いている河合隼雄先生の『カウンセリングと人間性』を読んでいる。寝る前に少しずつ。面白いので、つい興奮して眠れなくなる。そんな毎日。
 この本の山場ともいうべき箇所「カウンセラーの態度ー現象学的接近法の問題」は非常に考えさせられる。今後のためにも自分なりにまとめておこうと思う。
●「とらわれない態度」で事象を見ることの困難さについては、ただの素直に感じたままということではないということだ。たいていの場合、常識や個人的感情にとらわれてしまう。
 理論的な枠組みを持ちつつ、しかもそれにとらわれないという二律背反的な訓練を経ることでようやく現象学的接近法は身に付くということだが、これは演劇にも仕事にも同様に言えることだ。
●この「百の目、千の事象」もまたこの「現象学的接近法」の訓練のための場だということでまた考えていこうと思ったのだった。

反省的な分析へ

●毎日、ほぼ仕事が終わって気分を切り替えるのに精一杯。
 しかし、だからといって、毎日「できない、できない」と書くのもどうかと思うので、何か書くことはないかと考えていたが、WiiSportsでストレス解消に毎晩今やっているのはボクシング。

●これを5試合くらいやるともう腕が上がらなくなる。汗だくだ。しかし、これが本当にいい運動になっていて、一心不乱にただ動く。
 この時期に本当にあって良かった。
●で、毎晩、寝る前は『使える現象学』を少しずつ読んでいる。少しバタ臭い翻訳が気になるが、慣れてくると中身に集中できる。で、これが結構勉強になる。そうか、見学者的に「見る角度」を中心に据えているのも、現象学のことがある。
 この日記もまさにそうでなければならないのだが、あらゆる現象に対して、いわゆる「反省的な分析」を行わなければならない。
 ここに「見学」の新たな可能性があるように思う。

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主要登場人物

■倉光仁美・妻・つまん
 見学者の演出担当であり、妻でもある。
■むすこん
 息子のこと。ネット上の相性。(この流れでわたしも「おっとん」と名乗るようになる)
■ロム
 大連駐在時に日本料理屋のウェイトレス張さんにもらった猫
■ハム
 ロムとその日本料理屋で飼われていたアサヒ(オス・現在北海道にいると思われる)との間に生まれた娘猫。

■歩く会
 都内を中心に歩く会。

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