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相対主義のこと、ポップのこと

131114

●80年代にシラケの土台ともなったのが「相対主義」だと思う。この相対主義を手に入れた若者たちは、「いいものもある、悪いものもある」に代表されるような、結局何も言っていない状態で、煙に巻くような、皮肉るような態度で、前進しようとする力を無化する。
 それはおそらくただ闇雲に前に進もうとした者たちへのアンチテーゼだったのかもしれない。
 あるいは、「信」に対する「不信」だったと言ってもいいかもしれない。
●そもそもわたし自身のこのブログの書き方はやや重く、どちらかというと絶対的な何かを「信じている」書き方ではある。権威的と言ってもいい文体。
●逆に相対主義にはPOPがよく似合う。つまりは大衆性。「カワイイ」。とても身近なものだ。わたしがあのポップな「まるもじ」を覚えたのも小学校2年か3年生のころだった。ちょうど80年代半ばだった。その後よく目にしたのは昭和軽薄文体。原田宗典氏のエッセイは好きだった。

●いや、ポップな装いはだからこそ政治的で有り得る。政治的であることの良し悪しはわからないが、実効的であるかどうかで言えば大いに意味がある。社会に直接的に働きかけることができるからだ。たとえば、詩だけでは届かないエリアにゲームを混ぜれば届くことができる。広告と組み合わせれば届く範囲も広がる。
 何か人びとが誤った方向にまとまって進んだときに、それを助長することができるのも、逆に引き留めることができるのもまたポップなものかもしれない。
 
●あるいは、その流れで話を進めるならば、相対主義は、何か圧倒的に間違った方向に進んでしまおうとする力をも無化するという意味で、やはり政治的なのだ。

●10年代の今はあきらかに前進に向かっている。多幸感を伴って。2020年のオリンピックはちょうど一つの旗印になるだろう。そうやって何かを必死に忘れるように前に進んだ先に何があるのかはっきりわからないまま、「行ってみなきゃわからないじゃないか」とばかりに前に急ぐ。わたしのなかにも明らかにその流れは感じる。それがとてつもなく危険なことのようにも感じる。

 そこで必要なのは、感情や気分で動くのではなく、ロジック、意見で行動ができるレベルまで、一人一人が本当に「考える市民」になることだ。しかし、到達できるか。とてつもなく難しいけれど、少なくとも人数を増やすことは可能だろう。
 そのときにはやはり文学や演劇や科学や建築や美術や化学などなど、それぞれの専門のカテゴリーを超えることができるかどうかそこを開く言葉を考える必要があるのだと考えている。演劇的に、戯曲的にそれは可能なのか考えるし、そうやって遠回りなかたちでしか大事なことは届けられないのではないかと思っている。

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