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構造から機械へ、反復のもつもの

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●昨日に引き続き今日も、『ドゥルーズの哲学原理』(國分功一郎・著/岩波現代全書001)から。
 今日は「第Ⅳ章 構造から機械へ」。ドゥルーズがガタリの思考を取り込むことで、第二の主体性につなぎ、自由間接話法でどちらの思考かの区分も曖昧にしつつ、その二人の主著『アンチ-オイディプス』で書こうとしたのはなんだったのか。あるいは、ドゥルーズにとっての構造主義はなんだったか、またガタリが作り出した「機械」という概念で(というかイメージを使って)何を描きたかったのか。そのあたりはやや複雑なので、簡単に整理しておきたい。

●と思ったが、一向に簡単にならなかった(笑)

○ここでは「構造とは、一般性であり、時間や変化があつかないもの」であり、それと対置されるイメージとして反復する「機械」がある。反復には時間があり、それでいて同じ物は二度とない。置換え不可能で交換不可能。(演劇をイメージすればまさにそのものだ)
 ここからフロイトの反復強迫を真逆から考える。
 「一般には、まず或る表象が何らかの理由で抑圧され、その抑圧には絶えずエネルギーが必要であるから、しばしば抑圧のエネルギーが緩んだときに抑圧された表象が再来する、と考えられている。ところが、ドゥルーズは、この定式を完全にひっくり返し、人は反復するからこそ抑圧するのだ、と述べている。そして、反復こそが或る種の経験を生きるための条件なのだ、とも。」
 ドゥルーズは「反復」の中にこそ生成の原理を見る。

○そして、「構造主義とはなにか」をドゥルーズの言葉で考えたり、以下の三つから無意識モデルについて分析へと進む。
 「実際には複数の要素がバラバラにうごめいているにもかかわらず、それらを大域的にまとめ上げて「エス」と予備、それを自我と対立させる」フロイト無意識モデル。
 これに対するラカン派精神分析の構造主義的発想に基づいたセリー的無意識モデル。
 さらにライプニッツ的な微細表象モデル。

●精神分析の言葉が増えてくるのは生成や変化を考える上では、必然だとも言える。

精神分析的に見ると、いわゆる「正常者」は軽い神経症患者として捉えられることになる。正常者は原抑圧に基づいて何らかの表象を抑圧し、それに伴うある程度の葛藤を抱えながら意味の中を生きていることになるからだ。すると、精神分析による治療は人を「正常」な神経症患者にする、と言ってよいことになる。では、そのとき、ドゥルーズ=ガタリのように原抑圧の理想的な作動そのものを疑うとどうなるだろうか? 軽い神経症患者としての「正常者」など本当に存在するのか、という疑問が出てくることになる。つまり、精神分析はありもしない「正常」の像に向かっていることになる。(P.166)

●ここでの話は複雑なものばかりだが、ドゥルーズ=ガタリという二人が行き着く先とこれから取り組んでいく「資本主義」と「政治」の問題に入っていくのも、この「原抑圧仮説からの脱却」と、ではなぜ人は自らを抑制するのか、「欲望と社会のみが存在する」のこの社会を考える段階に入っていく。

●しかし、これもまた2013年12月14日の浅い二度目の読みだ。まだまだ表層をなぞったに過ぎない。それこそ反復して読むことで読みの度に「経験」として変化するのだろう。

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