Agence France-Presse/Getty Images
●Wall Street Journal(日本)から「幻覚が見えた」―マンデラ氏追悼式のでたらめ騒動手話通訳者の記事より。
昨日一気に話題になったマンデラ氏追悼式のでたらめ騒動手話だが、その「でたらめ」と言われた内容について調べていくと、ちょっとドキリとさせられて、動揺を抑えることができなかった。その手話の内容を調べていくとこうあった。
「さー、パーティを始めようぜ。大きな魚、小さな魚、ダンボール箱!」
「確かに演説は退屈だ。でも大丈夫。もうすぐキスがやってくるから」
●この通訳が自己申告している統合失調症によるものなのか、ことの真相はよくわからないままだけれど、いずれにしてもこうしたスキゾ的な言語感覚にわたしは強烈に惹かれてしまう。それはもうどうしようもなく惹かれてしまうのだ。自分でもわからない。
ただ、わたしのような人間には見えない世界がその先に広がっていて、天才にしか見えない世界があるらしいことはわたしにはわかっている。
●テキストを織っていく中で、絶対にあり得ない組み合わせを組み合わせてしまう何かがあって、それはわたしが書くような、あるいはシュルレアリスムで方法によって意図されるような、意図的なものじゃない、もっと自然な、それでいて特別なものだ。いや、そうした特殊性を神聖化しようってわけじゃない。
●ただ、それらのヒントをここでも『ドゥルーズの哲学原理』(國分功一郎・著/岩波現代全書001)の「第Ⅲ章 思考と主体性」から考えさせられることを引かせてもらおう。
あらかじめもっていた企てによって発揮される主体性(第一の主体性)は、物事を既存の知覚の体制に沿って再認するにすぎず、少しも新しさをもたらさない。物事の変更につながらない。既存の知覚の体制を破壊するような知覚との出会いこそが、<物質に付け加わる主体性>(第二の主体性)をもたらす。
●まさにこの部分だ。第一の主体性というのは、いわば近代の「個人」の主体性そのものだ。そうではなくて、ドゥルーズの方法で言えば、わたしたちは何らかのシーニュ(しるし)に出会うことによって、暴力的に思考させられる。そして同時に國分さんが指摘するように、わたしがこの方向性でやってきていることの限界の壁もここにある。
しかし、失敗を目指すことはできない。失敗は、目指した途端、失敗ではなくなるからである。そして、この問題点は、そのまま思考の理論にも跳ね返るだろう。思考は、出会いによって強制されて初めて生まれる。したがって、思考することを目指すことはできない。出会いは目指せない。
●だから、多くの引用を使う。そして、多くの他者を<わたし>のなかに取り込む。そのようにして極めて偶然性が多発しやすい環境を作る。その後、ドゥルーズがガタリと組んで思考するように、あるいは、ジャンルとジャンルが飛び越えるように。
●それにしても、わたしの基本的思考がこんなにドゥルーズにはまるとは思わなかった。これはユング派の河合隼雄さんに影響を受けてきたためなのか、あるいはドゥルーズの影響を受けて創作してきた人たちの作品に影響を受けてきたからか。あるいはそれらの組み合わせかもしれない。だから、わたしは早くこの短期的に起きているドゥルーズとの出会いのチャンスを有効に引き込んで、それを乗り越えたい。その次に行きたい。