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年賀状からの無用の用

●年賀状が全然終わらない上に、仕事の方もあれこれと山積みで、どんどん保留されていくから、モヤモヤしてしょうがない。
●せめて仕事のことはさくさくと終わらせていきたいのだけれど、曖昧な意志決定がないまま、時だけが流れていく感じがどうにも嫌な感じなんだ。
 とはいえ、まるで何かをやり遂げたような達成感はあるのに、まるで何もやっていないということは往々にしてある。
●むしろ、達成感なんかなくて、なんだかよくわからないうちに変化しているということのほうが、真の実力がついている状態と言えるのかもしれないななどと考えるものの、実力を付ける過程の話と、単なる事務処理を混同してはならないのかもしれない。
 やればやったで終わる仕事はとにかくスピードがはやく、正確であれば、それに越したことはない。経済の観点からすれば。
●ただなあ、もっと無駄なものを許容できる仕事に価値を転換できないかなあとも考えてしまうのだ。

●たとえば、当時90年代後半からなぜあんなに「自分探し」や「やりたいこと」みたいな幻想が蔓延ったか不思議だが、それもきっと無意識に「対効率」という旗印があったからなのではないかとふと思い立つ。
 原発に象徴される「効率と経済」のためではない何か。いかに無駄であるか、非効率であるかの振る舞いは、いかなる言説よりもストレートに「アンチ効率」の旗印になっただろう。
●それを考えるには老荘思想が大いにヒントになるだろうが、老荘思想は人を堕落させると効率優先社会の人達は言ったのだ。今の中国そのものだ。老荘思想の排除、無駄の排除。
 あるいは、いかに合理的効率的な組織を作るかは、軍隊を例に引き合いに出されるが、会社のピラミッド型組織図はいまだにそこから抜け出せていない。何か違う。

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