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何ができるか

●今日は金曜日。この一週間何とか生きていられた。何とも言えないこの充足感のなさはどうしたらいいものか。
●朝のニュースではわたしの生まれた町の役場の役人が出ていて、舛添要一厚生労働大臣に責められたことに対して、何か言っている。年金の横領問題。そんなものは結局氷山の一角でしかないんじゃないか。
 この町に生きていれば、それは肌で感じられる。そして、それにまた馴染んでしまえば、いつのまにかそれが当然のことのようになっている。
 いや、そんなに極悪人がいるわけじゃない。ただ、自分たちがやっている現在のことと、世界がどういう方向にこれから進もうとしているかというそのギャップに気付かずにいるだけだ。まあ、それが問題なわけで。
●昨日の話を引き継げば、「だから、今こそ俺たちはもっと○○していかねばならない」とする姿勢は確かに可能だ。わたしも気分が乗っているときはそうしているのも事実。そうしていれば、少しは気もまぎれる。
 しかし、本当はそうした態度はあまり意味がないんじゃないかとも思える。一種の表現として、それはありだとは思うが、効果的かどうかという意味ではどうも”?”が残る。
 ここでは(いや、ほとんどの地方でもそうだと思うが)一種の「実存主義的態度」が良かれ悪しかれ深く根ざしているのであって、それも結局、この日記の冒頭にある「充足感の無さ」から生まれてくるものではないかとも思う。「真実」や「正義」を振りかざすアメリカ的なものに対する一種の抵抗にはなりうるが、そこに甘えのようなものが加わると、もうどうにもならない駄目スパイラルに陥る。「ニヒリズム」しか残らない。
●もっともっと俯瞰で見たい。
 そして、今のわたしが出せる答えは耳を傾け、そこに共感する以外にない。「甘え」のないあらゆる話にわたしは共感できると思う。今のわたしにできるのはそれしかない。

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