●代わりが効かないこと、代替不可能であることについてあれからずっと考えている。
「社会のなかで必要とされる」ことはどういうことなのか。それは企業の生存に関わる命題でもある。
小学生から蝶の研究をしていた茂木健一郎少年が東京大学においては「自分は単なる数字だったんだ」と、あるテレビ番組の中で東大生を前に話をしていた。これも深く関わっている。
あるいは、先日も書いたヴァナキュラーという概念もしかり。
●そう、これはまさしく「近代」以降の語り直しのことなのだ。
近代においては、まさに「積み木」のような<代替可能になる>ように設計された同じ規格の大きさのものを、積み上げたり、またばらして、再構築したりしている。
●一方で「わたし」が求められる意味というところでは、最も真逆なところでわかりやすい例で言えば恋愛がある。あるいは、さらに強いところで言えば母子関係。赤ん坊は、母親に生命をまるまる投げ出して寄り掛からざるを得ない。そうしたもう本当にどうにも代わりが効かない状態というものはまさに近代以降も同じなのだ。
このことが戯曲の中でも少し書ければと思っている。
●ただ、これらについて考えるのはまた後日にしたい。あくまでも今は<代替不可能>な仕事について考えている。そんななか経済人であり、経営者であるわたしはこう考えた。
■新しいことにチャレンジする際に人に見えないブラックボックスができるのは当たり前。本人さえ模索しながら前に進んでいる。ただ、ルーチンワークにすべき単純なこともブラックボックスにしてしまって、「だから、わたしは代わりが効かない」とするのは本当に馬鹿げてるからやめたほうがいい。
●そして、鷲田清一さんの『パラレルな知性』をパラパラとめくっていると「パートの二つの意味」という文章のなかでこれについてすでに書かれていた。ここに新たな発見があった。
まず前提として「代わりはいくらでもいる」と言われる場合の「代わり」、それから「わたしはいま行けないからこの人物を名代として送る」というときの「代わり」。
この「代わり」の二様、前者を<代替>、後者を<代理>と呼んでみよう。するとこの二つは、ふつう「部分」と訳される「パート」という語の二つの意味に対応することが見えてくる。
まさに、<代替>と<代理>のことなのだとわかった。さらに面白いのはこの先だ。まだ自分のモノになっていない。
パートという語からは、だから、パーティション(分割)とパーティシペーション(参加)という、対極的な二つの語が派生してくる。後者は、音楽の組曲(パルティータ)のように、どのパートを外しても全体は成り立たないという、全員参加(パート・テイキング)の様態である。
パートタイムの業務が雇用/解雇という組織としての企業論理の中に組み込まれているとすれば、パーティシペーションは、ネットワークとして編まれ、パートがうまく機能しないときは、その担い手を切り捨てるのではなく、それを他のパートがサポートするという働き方をする。そこでは、「これをするのは別にあなたでなくていい」という代替可能性ではなく、「あなたができないならだれかが代わりにやってくれるよ」という代理可能性がはたらく。
●引用が長くなったが、こうして書きながらわたしは自分の思考に切り替えている。そして、改めて企業の役割。地方の中小企業の受け皿としての役割を考えるのだ。
●一方で、こうした仕事について考えていると途端に戯曲の方でもいいアイデアが出てくる。まったく不思議なものだ。
ある意味ではこのテーマ、近代の語り直しの問題が、仕事でも演劇でもあるいは生活でも、同様に深く根ざしてわれわれの目の前に横たわって道を塞いでいるからだ。
そして、このさらに先に「デザイン」と「サービス」が見えてきているのだけれど、それもまた後日にしよう。
●まだ風邪も治っていない。