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ゴドー追悼の秋から

130924

●やはりこちらにいると眠りが浅いようで、夢を見る。見たい夢も見られる。
●朝。14度ということだった。カーディガンを一枚羽織っていったが、それでも外に出ると寒い。日本も涼しいようだし、いよいよクールビズも終了かと、ビニールジャンパーのシャカシャカと擦れる音から知る。半袖の人がいて、パーカーとか、薄手のコートとか、Tシャツとかが交錯する。

●ふいにこれから寒くなることを考えると、あの大きな祭りが終わったあとであろう2021年1月の光景が目に浮かんできた。
●10年代という多幸感溢れる夏は何かを一生懸命に忘れるための、祭りなのだろうか。だからこそ20年代の秋のことを今から考えなければと思った。むしろそこで力を発揮できるようなサービスを、製品を、仕事で提供できるようになっていなければと考えたし、作品もそのときに見ても耐えられるものであるのか考えておかなければと思った。
 2020年の夏が終わり、10月になると、わたしは44歳だった。
 そんな未来について考えていると、こんな言葉に出会う。
 自分にとって心地よい言葉に浸るところから一度出て、今まで避けていた人の言葉を聞いたりしていると、そこにはまた別の光景が広がっている。そこにまた新しい発見がある。


◎わたしは追憶の中で生きているのか。ゴドーに線香をあげ続けているのだろうか。盛り上がりも終焉もない、その瞬間のなかで永遠に生き続けること。
●そんなことを考えたこともなかった。単純にわたしはもう二度と来ないゴドーを追悼していただけだったとしたら、それもまた虚しい人生ではないだろうか。

●こんな時は思いっきり道に迷う。迷いながら進む。それは結構慣れている。いつもそんなふうに書いているし、みずからが揺らぐことからようやく何かが思いがけず発見できると考えている。そうやってしか出会いたいものに出会えない。目的通りにばかり動いてたまるか。
 よし。今日も少しずつでも書き進めよう。ゴドーを追悼するためでも、待つためでもないものを。

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