●昨日の影響を受けて『存在と時間』を読む。非常に久しぶりだ。あ、ここであまり具体的には書いてしまうと、向こうで書くことがなくなってしまうので、この新鮮な気持ちはそのままに取っておこう。
●ただ、昨日の話を整理するために考えておくならば、問題はハイデガーが論理の力によって克服しようとしたもの、そしてベケットが弱者の論理で乗り越えようとしたものは何だったのかという問題だ。これについては、保坂氏も「わからない」と最後に言っていた。
ハイデガーが問題にした「現存在」というテーマで何を浮き彫りにしたかったのか。もちろん、「存在」を問いなおすというのが『存在と時間』の一つの大きなテーマになっているだろうことはタイトルからも想像できるし、これまで読んできた箇所でも繰り返している。
しかし、ベケットのいわゆる「わからないもの」として表出されるそれと、この現存在をどう関連づけていいものか、昨日はだいぶスッキリしたように思ったのだが、まだ、はっきりとはしない。
そこにもおそらく人間の実存に関わる何か、わたしがここにいるとはどういうことなのか、その曖昧でどうにもはっきりしないことを何とか文学にしようとした人たちがいたわけだし、あるいはそれを論理で何とか明確にしようとした人たちがいたのだ。その当たりが大きなヒントになるはずだし、それはひいてはわたしが何故ハイデガーを読むのか、一部の演劇をよく見ようとするのか。そのこととも関係してくるはずだ。
いずれにせよ、わたしは明らかにその影響下にいるということだ。そこを考えずにはいられない人たちは、他にもきっといる。