kengakushaとは

黒沼佰見あらため黒沼非役(くろぬまひやく)がライフワークとして、舞台・Web・言葉を通じて、新たな視点を獲得し、考えることを楽しむためにつくられたソロ・ユニットです。

なぜ「kenngakusha(見学者)」なのか

わたしは、自己紹介をするときにまず自らが何者であるかを説明します。

それは社会の中であらかじめ準備された性別や年齢などの「属性」もあるでしょう。求められてそうなった「役割」もあるし、ある組織や社会の中で変化する「肩書き」も。たとえば、どこどこの会社に所属しているとか、結婚しているとかの形でそれは言葉になります。
人はその外側に貼り付いたものを見て、少なからずその人を解釈して、判断します。

わたしが描こうとしている人間の「存在」というのは、いくつかの属性が剥ぎ取られた瞬間に見える一瞬のゆらぎのようなものなのかもしれないと考えています。
そのとき「わたし」のことを考えます、誰でもない「わたし」とは? 肩書きのない「わたし」とは? 宙ぶらりんな存在の「わたし」を。

あるとき、文芸誌をパラパラとめくっていると、フランツ=カフカが「見学者」という文学サークルをやっていたというエッセイを目にしました。そのときに、この社会の中でのどこか居心地の悪そうな宙ぶらりんの存在である「見学者」がつながりました。しかし、その記事はあとから何度探して見つかりませんでした。たしか見開きの左ページにあったのです。あれは夢だったのでしょうか。なかったのです。だったら、わたしがつくろうと思いました。(いや、いまでもまだそのページはあるはずだと思ってはいるのですが)

すべてを削ぎ落とした透明な存在の「わたし」、「わたし」を「わたし」たらしめている「属性」がなくても、どんな場にもいられる存在です。
「見学者」というラベルを貼ったり、ネームカードを首にかけたり、バッジをつけて、宙ぶらりんのままでも存在してよい「わたし」として。

それは舞台袖の役者のようです。役でもなく、役者本人でもない。その中間にいる、宙ぶらりんの存在。
そんな借り物の、一時的な、暫定的な「わたし」の姿です。

わたしたちは一つの属性ではなく、複数の属性を生きています。その狭間で、剥き出しの存在の脆さに耐えている人がいます。そのことにも自身では気づかないまま、わけのわからない不安を抱えています。そのなかでまた与えられた役を、あるいは自ら作った仮面を、たったひとつの「本当のわたし」などにしないために。
もう一度、あらためて何ができるか考えはじめようと思います。

 

2016年1月 黒沼非役